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傭兵隊長クセノフォン  作者: 世間の果て
第九章:首のない肉体と理性(ロゴス)
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骨格なき肉の痙攣

 火の粉。

 バチリ。乾いた薪の内部で気化した樹液が破裂する。

 一万の細胞が、一斉に致命的なエラーを吐き出した。

 司令塔(脳)からの電気信号の完全な途絶。中央神経系を物理的に切断された巨大な肉の袋。

 野営地全体が、不整脈を起こした心臓のように不規則な痙攣を始める。

 ザザ。ザザザザ。

 砂利を踏みしめる音の束。方向がない。無意味なベクトル。無数の足音が互いに衝突し、乱気流を生む。


「あ」

 誰かが短い呼気を漏らす。

 隣の男が走り出した。釣られて三人が走る。どこへ。暗闇の中へ。

 天幕の支柱が蹴り倒される。麻布が破れる耳障りな高音。

 足元。泥濘に突っ込んだ男の右足。すり減った革サンダルの紐がプチリと切れ、親指の爪が直接石英の角に激突して剥がれる。だが男は止まらない。爪の間に詰まった黒い泥ごと自らの肉を引きちぎりながら、奇妙に跳ねるようなステップを踏んで火の向こうへ消える。


 恐怖。純度の高い、動物性の恐慌(パニック)

 社会の骨格が、今、この瞬間、完全に液状化した。

「おい、メシだ! メシを持て!」

 金切り声。

 荷車に積まれた配給用の干し肉。塩を吹いて石のように硬くなった羊の塊。

 そこに群がる四つの影。いや、六つ。

 重装歩兵の丸盾が背中でぶつかり合う。ゴン、ゴス。青銅と青銅がこすれる鈍い摩擦。

 歯を剥き出しにした男たちの荒い鼻息。フン、フン。豚の交尾に似た湿った吸気音。

 麻袋の端を両手で掴み、全体重をかけて後ろへ引っ張る。

「放せ、俺の分だ」

「知るかよ。俺が先に触った」

 一人の男が腰の剣を抜いた。

 振り下ろす。狙いなどない。ただ目の前の障害物を取り除くための単なる物理運動。

 ガギッ。

 剣の刃が、横にいた味方の鎖骨に食い込んだ。

 骨を綺麗に断つ音ではない。青銅が骨の表面を滑り、筋膜に深々と噛み込む嫌な感触。

「あぎぃ」

 切られた男が奇妙な声を上げる。声帯より手前、喉仏の震えだけの音。

 血が噴き出す。泥と混ざり、黒い染みが急速に拡大する。

 だが、剣を振った男は刃を引き抜かない。そのまま柄から手を離し、両手で干し肉の袋を抱え込んで走り去る。鎖骨に剣を生やした男は、痙攣しながら土の上に倒れ込んだ。


 臭い。

 アンモニアのツンとした刺激臭。

 恐怖で括約筋の制御を完全に失った男たちの股間から、生あたたかい黄色い液体が垂れ流されている。

 それが冷たい風に乗り、野営地に蔓延する。

 尿と、汗と、古い羊脂の入り混じった濃密なガス。

 一万人の膀胱が一斉に緩む音。

 火のそば。

 兜を放り捨てた若い男が、自分の髪を両手で引きむしっている。

 頭皮からフケと泥が剥がれ落ちる。

「ペルシャだ」

 男の瞳孔は極限まで拡大し、黒目の周囲に異常な量の白目が見えている。

「ペルシャに土下座しろ。首を繋いでもらえ」

 誰に言っているのか。空虚に向けた音声データの垂れ流し。

 隣にいた髭面の隊長が、突然その若い男の胸ぐらを掴んだ。

「お前を売る」

 髭面の口から、臭い唾が男の顔面に飛ぶ。

「お前の肉を太守に差し出せば、明日の朝飯がもらえる。お前は若い。高く売れる」

「ふざけんな、俺はアテネの」

「知るかよ。血統書で腹が膨れるか!」

 髭面が男を地面に叩きつける。

 上に馬乗りになり、泥だらけの拳を振り上げる。ゴツ。頬骨が砕ける音。

「太守様! ここに新鮮な肉がありますぜ!」

 髭面は暗闇のペルシャ陣営に向かって絶叫しながら、味方の顔面を殴り続ける。ゴツ。ゴチャ。

 肉が潰れ、歯が折れ、泥に血が混ざる。


 防衛本能の暴走。

 国家の保護。軍事的規律。

 それらは外部から押し付けられた見せかけの装甲に過ぎなかった。

 装甲が剥がれ落ちた瞬間、中から這い出してきたのは、ただの剥き出しの胃袋の集合体。

 恐慌(パニック)からの脱出手段。

 それは「他者を食い殺すこと」に完全に直結している。

 隣の男の肉を削り取り、自分の生存枠にはめ込む算術。

 究極の獣的還元。

 一万人の群れが、巨大な一つのすり鉢の中で、互いの肉体をすり潰し合っている。


 クセノフォンは微動だにしない。

 目の前を、鎖骨を押さえた男がよろけながら横切る。男の革鎧から垂れる血が、クセノフォンのすり減ったサンダルのつま先に数滴跳ねた。

 冷たい。

 血の温度が、外気によって急速に奪われている。

 野営地のあちこちで上がる火柱。

 交錯する影。悲鳴。怒号。泣き声。

 統制された軍隊が、ただの害虫の群れへと相転移する決定的な瞬間。

 プロクセノスの首は、まだ足元の泥の中で、この滑稽な喜劇を半分開いたカサカサの目玉で見上げている。


 狂乱のノイズが、クセノフォンの鼓膜を内側からガンガンと叩く。

 胃袋の底で、消化不良の豆がさらに激しく回転を始めた。

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