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傭兵隊長クセノフォン  作者: 世間の果て
第八章:宴のあとの静寂
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切断された頭部と夜の静寂

 不協和音が途切れた。

 弦がちぎれた。あるいは弾く指が飽きた。

 沈黙。重く、冷たい泥の塊が野営地全体にのしかかる。


 ズル…ズル…。

 暗闇の奥、ペルシャ陣営の方角から、土を擦る音が這い寄ってくる。

 焚き火の赤い光の端。

 アルカディア人の隊長。

 歩いていない。四つん這い。右膝の青銅のすね当てが外れかけ、脛の骨が直接地面の石を削っている。

 男は両腕を腹の前に深く抱え込んでいる。

 大事な果物を落とすまいとする不格好な姿勢。

 彼が動くたび、抱え込んだ両腕の隙間から、グチャ、ビチャ、と粘り気のある水音がこぼれる。

 火の光が男の腹部を照らす。

 革鎧の下半分が、完全にない。真一文字の切断線。

 男の十本の指。垢まみれの爪が、必死に自分の腹腔の縁に食い込んでいる。

 隙間から、青黒い、ぬらぬらと光る太い管がはみ出している。

 腸。

 それは男の指の隙間を押し広げ、自らの重さでずるずると外へ逃げ出そうとしている。生き物。男の意思とは無関係に蠢く、熱を持った内臓の束。

 強烈な便の臭い。

 未消化の食物と、糞便の原液が混ざり合った濃密なガス。

 男が息を吐く。

 口の端から赤い泡が膨らみ、プチリと弾ける。

 細かい血の飛沫が、男自身の鼻の頭に降り注ぐ。男の右目の上に、古いイボがある。血の飛沫がそのイボを赤く染める。


 一万人の群れ。

 誰一人、声を出さない。

 息を吸い込む音すら消えた。肺の運動が完全に凍りつく。

 足元。

 男の膝の下に、黒い血だまりが急速に広がっていく。土が血を吸い込む限界を超え、水たまりとなって月光を反射する。

 男の顎がカクカクと上下する。歯がぶつかる乾いた音。

「太守は……」

 声帯に空気が通らない。血の泡のノイズ。

「約束を……」

 アカイア人の槍兵が、半歩後ずさる。サンダルが砂利を擦る音。

 欠けっ歯の男が、焚き火の横で鼻を鳴らした。

「ただの商取引だ」

 唾を吐き捨てる。

「一番うるさい部品を、一番安くスクラップにした。それだけだ」

 約束。外交。威信。

 そんな言葉は、この青黒い腸の光沢の前では、ハエの羽音ほどの意味も持たない。

 男の指が限界を迎える。

 ドサリ。

 両腕の力が抜け、抱え込んでいた内臓の塊が一気に泥の上に崩れ落ちた。

 湯気が立つ。

 夜の冷気の中で、男の体内の熱が白く空中に散化していく。

 男の顔面が泥に突っ込む。動かなくなった。

 クセノフォンは丸太の上に座ったまま、その湯気を見つめている。

 胃の底で、重たい鉛の球が反転した。

 強烈な吐き気。

 横隔膜が痙攣し、食道を酸っぱい液体が猛スピードで逆流してくる。

 口を閉じる。

 奥歯を噛み締める。

 顎の筋肉が悲鳴を上げる。

 逆流してきた胃液を、強引に飲み下す。ゴクリ。

 その時、鼻腔の奥で、強烈なバラの匂いが爆発した。

 プロクセノスの香油。

 あのテカテカに光った唇。

 今頃、あの唇はペルシャの天幕の豪華な絨毯の上で、胴体から切り離されて転がっている。

 目を見開き、舌をだらりと垂らし、顎の骨を砕かれて。

 高いワインを飲むこともなく、外交の成果を誇ることもなく。ただの生ゴミ。ただの肉片。

 首なしの死体から噴き出した血が、天幕の床に染み込んでいく光景が、クセノフォンの網膜に直接焼き付く。


 痛い。

 こめかみの血管がドクドクと波打つ。

 アテネの法。ソクラテスの問答。

 頭部を失った。

 自分たち一万人は、頭部を物理的に切断された巨大な肉の袋だ。

 指導部という名の頭脳が取り除かれた。

 考える器官はない。

 残されたのは、腹を空かせた巨大な胃袋と、槍を握る手と、泥を踏みしめる足だけだ。

 クセノフォンは立ち上がった。

 右手に握りしめた槍の柄。

 木目に染み込んだ自分の汗が、冷たく、そして強烈な接着力を持って手のひらに張り付いている。

 もう、誰も命令しない。誰も約束しない。誰も助けない。

 

 空間の質が完全に変わった。

 ここには、肉を切り裂く刃物の運動と、それに抗うための暴力しかない。

 法は死んだ。

 頭部はスクラップにされた。

 クセノフォンは足元の泥を蹴った。

 泥が飛び散り、死んだ隊長の腸の端にへばりつく。

 腹の底の鉛の球が、奇妙な熱を持ち始める。

 悲しみはない。怒りすらない。

 ただ、純粋な殺意の回路に、大量の血液が流れ込んでいく物理的な圧迫感。

 首がないなら、この槍の穂先を新しい頭にすればいい。


 夜の静寂。

 一万の凍りついた肉体たちの中で、クセノフォンの肺だけが、新しく、荒々しい空気を吸い込んでいた。

 シュー、という異様な吸気音。

 彼はもはや、アテネの哲人の弟子ではない。

 ただの、暴力の塊の先端だ。

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