切断された頭部と夜の静寂
不協和音が途切れた。
弦がちぎれた。あるいは弾く指が飽きた。
沈黙。重く、冷たい泥の塊が野営地全体にのしかかる。
ズル…ズル…。
暗闇の奥、ペルシャ陣営の方角から、土を擦る音が這い寄ってくる。
焚き火の赤い光の端。
アルカディア人の隊長。
歩いていない。四つん這い。右膝の青銅のすね当てが外れかけ、脛の骨が直接地面の石を削っている。
男は両腕を腹の前に深く抱え込んでいる。
大事な果物を落とすまいとする不格好な姿勢。
彼が動くたび、抱え込んだ両腕の隙間から、グチャ、ビチャ、と粘り気のある水音がこぼれる。
火の光が男の腹部を照らす。
革鎧の下半分が、完全にない。真一文字の切断線。
男の十本の指。垢まみれの爪が、必死に自分の腹腔の縁に食い込んでいる。
隙間から、青黒い、ぬらぬらと光る太い管がはみ出している。
腸。
それは男の指の隙間を押し広げ、自らの重さでずるずると外へ逃げ出そうとしている。生き物。男の意思とは無関係に蠢く、熱を持った内臓の束。
強烈な便の臭い。
未消化の食物と、糞便の原液が混ざり合った濃密なガス。
男が息を吐く。
口の端から赤い泡が膨らみ、プチリと弾ける。
細かい血の飛沫が、男自身の鼻の頭に降り注ぐ。男の右目の上に、古いイボがある。血の飛沫がそのイボを赤く染める。
一万人の群れ。
誰一人、声を出さない。
息を吸い込む音すら消えた。肺の運動が完全に凍りつく。
足元。
男の膝の下に、黒い血だまりが急速に広がっていく。土が血を吸い込む限界を超え、水たまりとなって月光を反射する。
男の顎がカクカクと上下する。歯がぶつかる乾いた音。
「太守は……」
声帯に空気が通らない。血の泡のノイズ。
「約束を……」
アカイア人の槍兵が、半歩後ずさる。サンダルが砂利を擦る音。
欠けっ歯の男が、焚き火の横で鼻を鳴らした。
「ただの商取引だ」
唾を吐き捨てる。
「一番うるさい部品を、一番安くスクラップにした。それだけだ」
約束。外交。威信。
そんな言葉は、この青黒い腸の光沢の前では、ハエの羽音ほどの意味も持たない。
男の指が限界を迎える。
ドサリ。
両腕の力が抜け、抱え込んでいた内臓の塊が一気に泥の上に崩れ落ちた。
湯気が立つ。
夜の冷気の中で、男の体内の熱が白く空中に散化していく。
男の顔面が泥に突っ込む。動かなくなった。
クセノフォンは丸太の上に座ったまま、その湯気を見つめている。
胃の底で、重たい鉛の球が反転した。
強烈な吐き気。
横隔膜が痙攣し、食道を酸っぱい液体が猛スピードで逆流してくる。
口を閉じる。
奥歯を噛み締める。
顎の筋肉が悲鳴を上げる。
逆流してきた胃液を、強引に飲み下す。ゴクリ。
その時、鼻腔の奥で、強烈なバラの匂いが爆発した。
プロクセノスの香油。
あのテカテカに光った唇。
今頃、あの唇はペルシャの天幕の豪華な絨毯の上で、胴体から切り離されて転がっている。
目を見開き、舌をだらりと垂らし、顎の骨を砕かれて。
高いワインを飲むこともなく、外交の成果を誇ることもなく。ただの生ゴミ。ただの肉片。
首なしの死体から噴き出した血が、天幕の床に染み込んでいく光景が、クセノフォンの網膜に直接焼き付く。
痛い。
こめかみの血管がドクドクと波打つ。
アテネの法。ソクラテスの問答。
頭部を失った。
自分たち一万人は、頭部を物理的に切断された巨大な肉の袋だ。
指導部という名の頭脳が取り除かれた。
考える器官はない。
残されたのは、腹を空かせた巨大な胃袋と、槍を握る手と、泥を踏みしめる足だけだ。
クセノフォンは立ち上がった。
右手に握りしめた槍の柄。
木目に染み込んだ自分の汗が、冷たく、そして強烈な接着力を持って手のひらに張り付いている。
もう、誰も命令しない。誰も約束しない。誰も助けない。
空間の質が完全に変わった。
ここには、肉を切り裂く刃物の運動と、それに抗うための暴力しかない。
法は死んだ。
頭部はスクラップにされた。
クセノフォンは足元の泥を蹴った。
泥が飛び散り、死んだ隊長の腸の端にへばりつく。
腹の底の鉛の球が、奇妙な熱を持ち始める。
悲しみはない。怒りすらない。
ただ、純粋な殺意の回路に、大量の血液が流れ込んでいく物理的な圧迫感。
首がないなら、この槍の穂先を新しい頭にすればいい。
夜の静寂。
一万の凍りついた肉体たちの中で、クセノフォンの肺だけが、新しく、荒々しい空気を吸い込んでいた。
シュー、という異様な吸気音。
彼はもはや、アテネの哲人の弟子ではない。
ただの、暴力の塊の先端だ。




