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傭兵隊長クセノフォン  作者: 世間の果て
第八章:宴のあとの静寂
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プロクセノスの死装束

 天幕の支柱が風で軋む。ギギ、ギ。

 プロクセノスが赤いマントの裾を持ち上げ、親指と人差し指で弾く。パン。

 砂埃が舞う。細かい粒が斜めに差し込む夕日の中で狂って乱舞し、クセノフォンの鼻腔に直接吸い込まれる。粘膜が刺激される。くしゃみを奥歯を強く噛んでこらえる。顎の骨がミシリと鳴る。

 プロクセノスの指先。

 細かく、病的に震えている。

 彼は震えを隠す動作で、もう一度マントを弾いた。パン。

「太守は僕の教養を評価した」

 声がひどく裏返っている。気管の粘膜が乾燥しきっている証拠だ。

 プロクセノスは木箱の上に置かれた小さな素焼きの小瓶を手に取った。コルクの栓を汚れた歯で乱暴に引き抜く。

 バラの匂い。

 むせ返る、暴力的で甘い原液の悪臭が天幕の淀んだ空気を切り裂く。

 数日洗っていない男の体臭。脇の下にこびりついた酸っぱい汗。革鎧に染み込んだ古い羊脂と、黒ずんで酸化した血の臭い。それらをごまかすため、プロクセノスは小瓶の口を直接自分の首筋に押し当てた。

 ドロリ。

 赤黒い液が、日焼けして垢まみれの皮膚を伝い落ちる。

 二つの匂いが空中で衝突し、混ざり合う。甘ったるい花の匂いと、腐れかけた肉体の臭気。混ざり合った結果、吐き気を催す最悪のガスが生成された。

 クセノフォンの胃袋の底で、先ほど飲み込んだ冷たい脂身がゴクリと寝返りを打つ。酸っぱいゲップが上がってくるのを、唾液とともに無理やり飲み下す。喉仏が痛い。

 プロクセノスは今度は小指の先に香油をつけ、自分のカサカサに乾いた唇にすり込み始めた。

 唇の表面はひび割れ、微小な血の瘡蓋がいくつもへばりついている。そこに強引に油を塗りたくる。

 ヌラヌラとした不自然なテカリ。

 顔の半分は疲労と飢餓で頭蓋骨の骨格を完全に露わにしているというのに、唇だけが異様に生々しく、滑稽な光を放っている。死体に化粧を施す儀式。

「ティッサフェルネスは話のわかる男だ。野蛮なスパルタ人どもとは違う。アテネの弁論術 の価値を知っている」

 プロクセノスが振り返る。

 狂っている。

 網膜の奥で熱を帯びた眼球が、不規則に左右に揺れている。焦点が合っていない。

 対等な外交使節。

 彼の中の脳髄は、都合の悪いデータをすべて完全にシャットアウトし、自家中毒を起こした甘い幻影だけを再生し続けている。


 雇い主を失い、敵地のど真ん中で食料の供給を絶たれた一万の武装浮浪者。

 それが現実の姿だ。

 それなのに、目の前の男は自分を価値ある交渉人だと本気で信じ込んでいる。

 クセノフォンは足元の土をサンダルの先でこすった。ミミズの干からびた死骸が土に半分埋まっている。すぐ横を、頭の巨大な黒蟻が列を作って歩いている。


「これでアテネに錦を飾れる。ペルシャ王家と直接交渉のパイプを持った男として凱旋だ」

 プロクセノスがマントの留め金を肩口で留める。

 カチャ、カチャ。

 指の痙攣で、真鍮のピンがなかなか穴に入らない。耳障りな金属音が繰り返される。

「おい」

 クセノフォンは低い声を出した。喉がざらついている。鉄の味がする。

「お前が着飾っているのは、高く売れる豚肉としての包装だ。せいぜい綺麗に陳列されてこい」

 プロクセノスの指が完全に止まった。

 唇の端がピクリと引きつる。テカテカに光った唇の隙間から、黄色い歯垢のついた前歯が覗く。

「嫉妬か、クセノフォン」

 プロクセノスは笑った。肺の奥から乾いた息が漏れる。ヒュー、という異音。

「君のソクラテス式の皮肉は、今は無用だ。太守の天幕には最高級のワインと、炙った肉が山積みになっているはずだ。僕はそれを哲学的に味わってくるよ」

 肉。

 その単語が舌の上を滑った瞬間、プロクセノスの巨大な喉仏がゴクリと上下した。生々しい嚥下音。

 彼が本当に求めているのは、外交の成果でもアテネの栄誉でもない。

 ただのカロリーだ。

 胃袋の強烈な収縮が彼を突き動かしている。空腹が、彼の中の教養という回路を完全にハイジャックし、ペルシャの罠へと自ら歩いていく都合のいい言い訳を自動生成させている。

 ただの食欲。ただの動物的欠乏。

 それをアテネの威信という概念で包装している。知性の完全な敗北。自らの肉体を切り売りする商品に成り下がった事実を、美しい言葉の塗料で必死に塗り隠す哀れな作業。


 クセノフォンは顔を背けた。

 天幕の隅に積み上げられた青銅の丸盾。その表面にこびりついた暗褐色の血の染み。ハエが一匹、血の染みの上を忙しなく歩き回っている。

「行くよ」

 プロクセノスが踵を返す。

 バラと汗の悪臭が風に乗ってクセノフォンの顔面を殴りつける。 マントが翻る。

 後頭部の髪。数日洗われず、土埃と頭皮の脂でベッタリと固まった毛の束。歩くたびに、首の裏の垢まみれの皮膚が伸び縮みする。

 そこには知性のかけらもない。ただ餌場に向かって尻尾を振る、洗われていない野良犬の後ろ姿そのものだった。

 クセノフォンの胃袋が、再びギュルリと鳴った。

 酸っぱい胃液が食道を逆流し、舌の裏側に到達する。

 彼は強烈な吐き気をこらえながら、友人の靴底が土を蹴るパタパタという間抜けな足音を、ただ無表情に聞いていた。


 音は次第に小さくなり、野営地のざわめきの中に完全に吸い込まれて消滅した。

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