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傭兵隊長クセノフォン  作者: 世間の果て
第八章:宴のあとの静寂
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休戦の配給と腐った羊肉

 バビロンの赤土の上に、ねっとりとした影が長く伸びる。

 ペルシャ陣営から押し出されてきた四輪の荷車。車軸が異常な高音で軋む。車輪の木枠にこびりついた乾いた泥の中に、いつの時代のものかわからない動物の白骨が砕けて挟まっている。その白骨の断面に、奇妙に鮮やかな青い草の汁がこびりついている。どうでもいい。

荷車の上に積まれているのは、無造作に解体された羊の肉。

 山。

 黄色く変色した脂肪の層。表面は不健康にテカテカと光り、金属的な緑色の腹をしたハエが、びっしりと絨毯のように張り付いて蠢いている。

 休戦。補給。

 太守からの贈り物。

 荷車を押してきたペルシャ人の下働きの男。怯えた目で車輪から手を放し、逃げていく。男の左足のサンダルの紐が千切れかかっていて、歩くたびにパタパタと間抜けな音を立てる。男の右耳のたぶが、何か鈍い刃物で削ぎ落とされたように平らに欠けており、そこだけ皮膚が不自然に白い。

 肉。

 一万の男たちの眼球が一斉に裏返る。

 青銅の丸盾が地面に放り出される鈍い音。兜の革紐を引きちぎるように解き、男たちが殺到する。

 ボイオティア出身の槍兵。顔の右半分に大きな火傷の痕がある男。彼は肉の山の手前で一瞬だけ立ち止まり、汚れた指で鼻の頭の吹き出物をカリッと引っ掻いた。

「敵の肉だ。毒でも塗ってあるかもな」

 背後から突き飛ばされる。トラキア人の軽装歩兵。

「毒で死ぬか、胃袋が縮んで死ぬかだ。俺は腹を膨らませて死ぬ」

 トラキア人はハエの塊ごと、両手で羊の肋肉を鷲掴みにした。

 火など通っていない。表面だけがわずかに炙られ、内側はどす黒い赤。血管の束から血が滴っている。

 かぶりつく。

 犬歯が太いスジ肉に食い込む。顎の筋肉が異常に膨れ上がり、ブチブチと筋繊維を引きちぎる嫌な音。咀嚼はない。丸呑み。男の異常に発達した喉仏が、ゴクリと暴力的に上下する。

 次々と群がる。

 手掴み。顔面を直接脂身に押し付ける者。奪い合い。さっきまで密集陣形で隣の側面を守っていたはずの味方の顔面を、青銅の甲手で容赦なく殴りつける。前歯が折れ、血が羊の脂と混ざる。

 クセノフォンは一歩下がって立っている。

 右手の指先に、飛んできた脂の小さな塊が付着した。生ぬるい。親指と人差し指で擦り合わせる。ひどく粘り気がある。腐敗の直前。甘ったるい死臭と、獣の古い汗の匂い。

 食う。ひたすらに胃袋に質量を叩き込む作業。

 政治。駆け引き。ペルシャ太守ティッサフェルネスの意図。

 そんなものは、脳髄の表面を滑り落ちていく無意味な記号の羅列に過ぎない。

 眼の前にあるのは、カロリーの欠乏という物理的な巨大な穴。それを埋めるための、純粋な生体反応。警戒心という高度な情報処理機能は、血中の糖分低下によって完全に電源を落とされている。


 数分後。

 最初の悲鳴。

 いや、悲鳴ではない。低く、湿った呻き声。

 先ほど肋肉を丸呑みしたトラキア人が、腹を抱えて泥の上に蹲っている。

 男の顔面から急速に血の気が引き、土気色に変わる。額には脂汗が吹き出し、目尻の深いシワの間にまで入り込んでいる。眉間の間の皮膚が、まるで硬い革のように収縮し、三本の深い縦皺を刻む。

「……クソ」

 腸がねじ切れる。

 男は慌てて革のズボンの紐を解こうとする。爪の間に黒い泥が詰まった太い指が痙攣し、結び目が解けない。

 構わず、下半身の括約筋が勝手に弛緩する。

 ブシャァ。

 水っぽい、勢いだけの排泄音。

 男の太ももを伝って、黄色く濁った液体が容赦なく土の上に流れ出す。

 あちこちで同じ音が連鎖する。

 胃袋に急激に詰め込まれた腐れかけの肉塊が、消化液の分泌を待たずに腸内を暴走する。猛烈な蠕動。

 野営地全体が、一瞬にして巨大な便所と化す。

 立ち上る熱気。

 酸っぱい。

 胃液と下痢便が混ざり合った、強烈な異臭。鼻の粘膜を直接焼くようなアンモニアと硫黄の気配。

 クセノフォンは口で息をした。舌の裏側に、空中の糞便の粒子が張り付くザラザラとした感覚。ペッ、と唾を吐く。黄色い塊が乾燥した土に転がる。

「腹が……」

 火傷痕のボイオティア人が、四つん這いになりながら胃液を吐き出している。未消化の赤い肉の塊が、胃酸にまみれて泥の上にビチャリと落ちる。

 それを、別の痩せこけた男が素手で拾い上げ、自分の口にねじ込む。

 狂っている。

 いや、極めて正常な内臓の運動。

 太守の陰謀など、この猛烈な蠕動運動の前では何ほどの意味も持たない。毒を盛る必要など最初からないのだ。極限まで縮み上がった胃袋に、適当な腐れ肉を放り込んでやるだけで、一万の高度に武装した集団は自らの排泄物にまみれてのたうち回る肉の袋に成り下がる。

 敵は言葉を使わない。剣も使わない。

 ただ、消化器官の物理的な限界を計算し、そこに正確な質量を放り込んだだけだ。

 クセノフォンは自分の平らな腹をさすった。

 革鎧の下。肋骨のすぐ下のくぼみ。

 猛烈な空腹が、胃壁を内側からこすり合わせている。ギシギシと音が聞こえるような錯覚。

 目の前の土の上に、誰かが落とした羊の骨付き肉が転がっている。ハエが再び集まり始めている。隣には、先ほど吐き出されたばかりの胃液の水たまり。

 手が伸びる。

 頭ではわかっている。これを食えば、数分後には自分もズボンを汚して土の上を這い回ることになる。

 だが、右腕の筋肉が、脳の命令を無視して独立して動く。

 指先が泥にまみれた脂身に触れる。

 冷たい。

 指先から伝わるそのわずかな弾力が、クセノフォンの全身の神経を一点に集中させる。

 唾液腺が爆発する。

 口内に溢れ出す酸っぱい水。

「食え」

 誰の声でもない。ただの胃袋の振動。

 クセノフォンはその肉片を掴み上げ、泥ごと、ハエごと、自分の口の中に放り込んだ。

 ジャリッ。

 奥歯で砂を噛み砕く。羊の冷えた脂が舌の上に溶け出す。

 不味い。圧倒的に不味い。

 ゴクン。

 食道を巨大な異物が無理やり通り抜けていく圧迫感。

 直後、胃の底にドズンと重いものが落ちる。

 そして、ゆっくりと。腹の奥底で、鉛の球が転がるような不穏な蠢きが始まる。

 クセノフォンは、自分の腸がペルシャの論理に完全に屈服していく過程を、ただ冷たく観察していた。

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