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傭兵隊長クセノフォン  作者: 世間の果て
第七章:クナクサの断頭台
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浮浪する暴力

 敵の背中が遠ざかる。

 砂埃の向こうへ。ペルシャ軍の歩兵たちが統制もなく、ただの茶色い染みとなって地平線に溶けていく。

 追う者はいない。

 ギリシャ人部隊一万。誰も一歩も動かない。

 アドレナリンの供給弁が、頭蓋骨の奥でガコンと音を立てて完全に閉まった。


 直後。猛烈な吐き気。

 胃袋の底に溜まっていた、消化不良の麦粥と酸化した胃液の混合物が食道を一気に逆流する。

 クセノフォンは前かがみになった。オロロ。

 足元の、他人の腸が散乱する赤土の上に、黄色い液体をぶちまける。喉の粘膜が酸で焼かれる。痛い。眼球が頭蓋骨から飛び出そうになる内圧。

 吐き終わっても、口の端から酸っぱい糸が垂れ続ける。それを手の甲で拭う気力すらない。


 右手。

 槍の柄を握っていた手のひらの皮膚が、呼吸を忘れたようにひきつっている。

 他人の血糊と自分の手汗。それがバビロンの熱風で急速に乾燥し、強力な接着剤と化していた。トネリコの木目と掌の真皮が完全に一体化している。

 指を開こうとする。

 メリッ。

 皮膚が引っ張られ、微小な毛細血管が悲鳴を上げる。

 痛い。

 槍が手から離れない。肉体と武器の美しい融合、などではない。ただの物理的な汚染だ。 不衛生な異物が自分の体に強引に張り付いている、極めて不快な状態。

 周囲の音。

 さっきまでの、骨を砕く単調な労働音は消えた。

 代わりに聞こえるのは、ズル、ズッ、という締まりのない足音。

 行き場を失った男たちが、無意味にうろうろと歩き回っている。

 左斜め前。スパルタ出身の男が兜を脱いで地面に放り投げた。青銅が石にぶつかってカランと乾いた音を立てる。男は自分のハゲ頭をバリバリと引っ掻き、その手をまた下ろす。意味のない反復行動。

 誰も整列しない。誰も命令を下さない。


「勝ったのか、俺たちは」

 誰かが呟いた。掠れた、ひどく間の抜けた声。

 クセノフォンは唾を吐き捨てた。血の味が混じっている。

「敵は逃げた。だが財布も死んだ。タダ働きだ」

 イボ男が、自分の太ももに刺さっていた矢をようやく引き抜きながら答えた。ブチュという嫌な音がして、黒い血が少しこぼれる。イボ男は抜いた矢の羽の曲がり具合を、なぜかひどく熱心に確認している。

 どうでもいいだろう、そんなこと。


 所有者を失った商品。

 市場の棚から泥の上に転げ落ち、誰の目にも留まらない規格外の果実。

 俺たちはそれだ。

 一万の重装歩兵。数十分前までは、ペルシャ帝国の心臓を抉り出すための精密な生体機械だった。

 だが、キュロスの喉元に穴が空いた瞬間、俺たちの存在を規定していた雇用契約書は蒸発した。

 大義名分。高尚な遠征。

 そんな包装紙はとっくに剥がれ落ちていたが、今や「日当」という最後の中身まで空っぽになった。


 足元。

 ペルシャ兵の死体。仰向けに倒れたその鼻の穴から、一匹の緑色のハエが出たり入ったりしている。

 ハエの背中の光沢が異常に鮮やかだ。金属的な緑。

 キュロスの黄金なんかより、このハエの羽の方がよっぽど精密にできている。

 クセノフォンは、そのハエの動きから目が離せなくなった。

 右の鼻の穴から出て、左の鼻の穴へ。

 何を忙しく運んでいるのか。

 意味などない。

 だが、今のこの一万人の集団よりは、よっぽど明確な目的意識を持っているように見えた。


 俺たちは何だ。

 高度に武装した、ただの浮浪者。

 アテネの法からは弾き出され、ペルシャの金には見放され、今はただの巨大な暴力の塊として、このクソみたいに広い平原に放置されている。

 家はない。帰る道もない。

 明日食う飯の保証すらない。

 だが、手元には一万本の槍と、一万枚の盾がある。

 暴力だけが、有り余るほどに残されている。


 ふと、胃の痙攣が収まった。

 代わりに、腹の底でドス黒い空洞が口を開ける。

 契約が切れたなら、労働者としての義務も消滅する。

 略奪。

 誰に遠慮する必要がある。

 所有者がいないのなら、俺たち自身が俺たちの肉体の所有者だ。

 生かすために、他人の全てを奪う。

 道徳のタガが外れたのではない。そんなものは最初からなかった。

 ただ、ルールが変わっただけだ。

 労働から、純粋な捕食へ。


 クセノフォンの右手のひらに張り付いた血糊が、完全に乾ききってパリッと音を立ててひび割れた。

 空気が急に冷たく感じた。

 太陽はまだ高いというのに。

 首の後ろの汗が、ゆっくりと体温を奪っていく。

 足元でうろついていた男たちの足音が、少しずつ、獲物を探す野良犬のそれへと変わっていくのがわかった。

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