浮浪する暴力
敵の背中が遠ざかる。
砂埃の向こうへ。ペルシャ軍の歩兵たちが統制もなく、ただの茶色い染みとなって地平線に溶けていく。
追う者はいない。
ギリシャ人部隊一万。誰も一歩も動かない。
アドレナリンの供給弁が、頭蓋骨の奥でガコンと音を立てて完全に閉まった。
直後。猛烈な吐き気。
胃袋の底に溜まっていた、消化不良の麦粥と酸化した胃液の混合物が食道を一気に逆流する。
クセノフォンは前かがみになった。オロロ。
足元の、他人の腸が散乱する赤土の上に、黄色い液体をぶちまける。喉の粘膜が酸で焼かれる。痛い。眼球が頭蓋骨から飛び出そうになる内圧。
吐き終わっても、口の端から酸っぱい糸が垂れ続ける。それを手の甲で拭う気力すらない。
右手。
槍の柄を握っていた手のひらの皮膚が、呼吸を忘れたようにひきつっている。
他人の血糊と自分の手汗。それがバビロンの熱風で急速に乾燥し、強力な接着剤と化していた。トネリコの木目と掌の真皮が完全に一体化している。
指を開こうとする。
メリッ。
皮膚が引っ張られ、微小な毛細血管が悲鳴を上げる。
痛い。
槍が手から離れない。肉体と武器の美しい融合、などではない。ただの物理的な汚染だ。 不衛生な異物が自分の体に強引に張り付いている、極めて不快な状態。
周囲の音。
さっきまでの、骨を砕く単調な労働音は消えた。
代わりに聞こえるのは、ズル、ズッ、という締まりのない足音。
行き場を失った男たちが、無意味にうろうろと歩き回っている。
左斜め前。スパルタ出身の男が兜を脱いで地面に放り投げた。青銅が石にぶつかってカランと乾いた音を立てる。男は自分のハゲ頭をバリバリと引っ掻き、その手をまた下ろす。意味のない反復行動。
誰も整列しない。誰も命令を下さない。
「勝ったのか、俺たちは」
誰かが呟いた。掠れた、ひどく間の抜けた声。
クセノフォンは唾を吐き捨てた。血の味が混じっている。
「敵は逃げた。だが財布も死んだ。タダ働きだ」
イボ男が、自分の太ももに刺さっていた矢をようやく引き抜きながら答えた。ブチュという嫌な音がして、黒い血が少しこぼれる。イボ男は抜いた矢の羽の曲がり具合を、なぜかひどく熱心に確認している。
どうでもいいだろう、そんなこと。
所有者を失った商品。
市場の棚から泥の上に転げ落ち、誰の目にも留まらない規格外の果実。
俺たちはそれだ。
一万の重装歩兵。数十分前までは、ペルシャ帝国の心臓を抉り出すための精密な生体機械だった。
だが、キュロスの喉元に穴が空いた瞬間、俺たちの存在を規定していた雇用契約書は蒸発した。
大義名分。高尚な遠征。
そんな包装紙はとっくに剥がれ落ちていたが、今や「日当」という最後の中身まで空っぽになった。
足元。
ペルシャ兵の死体。仰向けに倒れたその鼻の穴から、一匹の緑色のハエが出たり入ったりしている。
ハエの背中の光沢が異常に鮮やかだ。金属的な緑。
キュロスの黄金なんかより、このハエの羽の方がよっぽど精密にできている。
クセノフォンは、そのハエの動きから目が離せなくなった。
右の鼻の穴から出て、左の鼻の穴へ。
何を忙しく運んでいるのか。
意味などない。
だが、今のこの一万人の集団よりは、よっぽど明確な目的意識を持っているように見えた。
俺たちは何だ。
高度に武装した、ただの浮浪者。
アテネの法からは弾き出され、ペルシャの金には見放され、今はただの巨大な暴力の塊として、このクソみたいに広い平原に放置されている。
家はない。帰る道もない。
明日食う飯の保証すらない。
だが、手元には一万本の槍と、一万枚の盾がある。
暴力だけが、有り余るほどに残されている。
ふと、胃の痙攣が収まった。
代わりに、腹の底でドス黒い空洞が口を開ける。
契約が切れたなら、労働者としての義務も消滅する。
略奪。
誰に遠慮する必要がある。
所有者がいないのなら、俺たち自身が俺たちの肉体の所有者だ。
生かすために、他人の全てを奪う。
道徳のタガが外れたのではない。そんなものは最初からなかった。
ただ、ルールが変わっただけだ。
労働から、純粋な捕食へ。
クセノフォンの右手のひらに張り付いた血糊が、完全に乾ききってパリッと音を立ててひび割れた。
空気が急に冷たく感じた。
太陽はまだ高いというのに。
首の後ろの汗が、ゆっくりと体温を奪っていく。
足元でうろついていた男たちの足音が、少しずつ、獲物を探す野良犬のそれへと変わっていくのがわかった。




