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傭兵隊長クセノフォン  作者: 世間の果て
第七章:クナクサの断頭台
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喉元の穴、契約の蒸発

 視界の奥。

 分厚い黄土色のカーテンが、不意の突風で一瞬だけ横に引き剥がされた。

 ペルシャ軍本陣の真ん中。

 キュロス。

 黄金の装甲が、不自然な角度で空を向いている。

 馬の首の上。そこにあるはずの頭部の位置が、軸を失った独楽のごとくグラリと揺れた。

 飛来した一本の粗末な槍。

 それが、王子の顎の下、黄金の兜と胸当てのわずかな隙間、柔らかい気管のど真ん中へ正確に突き刺さった。


 音はない。距離がある。

 だが、喉元に空いた親指ほどの穴から、黒ずんだ赤色の液体が猛烈な圧力で噴出する物理的挙動は、網膜にはっきりと焼き付いた。

 プシュ。

 動脈血。血圧が作り出す完璧な放物線。

 そのアーチが、風に流されて隣の騎兵の顔面にべっとりと張り付く。


 重力。

 黄金の塊が、馬の背から滑り落ちる。

 スローモーションではない。ただの落下。重たい金属が土袋と一緒に地面に叩きつけられる、何の情緒もないズシンという動き。

 兜の側頭部がバビロンの岩肌に激突する。

 鈍くひしゃげた真鍮の反射。へこんだ表面に泥がこびりつく。

 王子が地面で痙攣している。

 右手の指先。

 爪の間に泥を詰め込みながら、何かを引っ掻き回すように不規則にビクビクと跳ねている。

 虫の足。

 潰された甲虫が、神経の反射だけで動かしている六本の足の先端。

 歴史家が「王者の最期」と呼ぶであろうその痙攣は、クセノフォンの目には、ただの不快な神経反射にしか見えなかった。

 指先の動きが、やがて止まる。

 泥の中に、完全に沈黙した肉の塊が一つ、ゴロンと転がっただけだ。

 主を失ったニサイア馬だけが、口の端から白い泡を撒き散らしながら、狂ったように平原の彼方へ走り去っていく。その後ろ足の筋肉の、無駄に滑らかな収縮。


「おい、王様が馬から落ちたぞ」

 右隣。イボ男が、手元の槍の血糊を敵の服で拭いながら、ひどく間の抜けた声を出した。

 彼の左太ももに刺さった矢が、またブルンと揺れる。

「……死んだのか」

 背後の男。

「首の骨が折れてる。たぶん血も足りない」

 クセノフォンは乾いた唇の皮を前歯で噛みちぎりながら答える。鉄の味が舌に広がる。

「じゃあ誰が今日の分を払うんだよ」

 イボ男が舌打ちをした。


 ひどく現実的で、かつ致命的な疑問。

 一万の歩兵陣形全体に、目に見えない巨大な波紋が広がっていく。

 波紋の正体は、悲哀ではない。喪失感でもない。

 純粋な、経理上のトラブルの発生。

 契約の蒸発。

 バビロンの乾燥した空気の中で、一万三千人分の雇用契約書が一瞬にして発火し、灰となって消え去った。

 キュロスという巨大な財布が、今、ただの穴の開いた肉袋にダウングレードされた。

 支払い能力ゼロ。

 倒産。不渡り。

 クセノフォンの胃袋の底に、ソフトボール大の冷たい鉛の塊がドスンと落ちてきた。

 猛烈な疲労感。

 右肘を叩き続けていた味方の盾の振動が、急に遠退く。

 アドレナリンの供給停止。

 足の小指のマメの痛みが、先ほどの三倍の強さで神経を直接ノコギリで挽き始める。痛い。ひどく痛い。

 両足の裏が、急に自分の体重を支えきれなくなる感覚。

 膝の関節にある軟骨が、すり減って完全に消滅したかのようなきしみ。


 ただ働き。

 この半日、赤土を吸い込み、他人の腸を踏み潰し、他人の血と胆汁の臭いを嗅ぎ続けた労働が、すべて無給の奉仕だったという事実。

 ギリシャから歩いてきた数千キロの歩数が、ただの無意味な数字の羅列に変換される。


「ふざけんなよ」

 後ろの男が、痰を吐き出すように呟いた。

 怒りではない。ただの徒労。

 王位簒奪。ペルシャ帝国の支配権。

 そんなものは最初からどうでもよかった。

 だが、明日の朝飯の麦粥を煮るための薪代。すり減ったサンダルを買い替えるための銀貨。

 それが消えた。

 神話的な悲劇などどこにもない。

 ただ、日雇い労働者が現場の監督に給料を持ち逃げされた、ありふれた醜聞。

 歴史の巨大な転換点が、あまりにもみみっちい日常の不満へと急速に矮小化していく。


 クセノフォンは、槍の柄を握る右手の握力が、ずるずると抜けていくのを感じた。

 トネリコの木の表面にこびりついた手汗が、急に冷たく、気持ち悪く感じられる。

 木目に詰まった他人の脂肪の感触が、ただの汚物として手のひらを汚染している。


 前線のペルシャ兵たちの動きが変わった。

 彼らも気づいたのだ。

 反乱軍の親玉が死んだ。

 敵の動きが、統率を失い、波が引くようにバラバラと後退を始める。

 追撃する理由が、こちらにはもう一ミリも残っていない。

 雇い主がいないのに、誰が残業をするというのか。

 青銅のムカデの足が、不規則に乱れる。 歩調が合わない。

 ザク、ザクというリズムが、ズル、ベチャ、という締まりのない足音に変わる。


「おい、押すな。終わったんだよ」

 イボ男が背後の男を盾で小突く。

 終わった。

 労働時間は終了した。

 だが、退勤を書き込む台帳がない。

 クセノフォンは、その場に立ち止まった。

 砂埃が徐々に晴れていく。

 足元には、腹を割かれて内臓をこぼした死体と、ハエがたかり始めた血だまり。

 上空では、もう何羽かのハゲタカが旋回を始めている。

 太陽は依然として容赦なく網膜を焼き続けている。

 喉の渇きは限界を超え、舌が口内の上顎に完全に張り付いている。

 剥がそうとすると、ビリッという痛みが走る。

 ただの喉が渇いた、汗まみれの男。

 それ以上でも以下でもない。


 顧客を失った商品は、どうすればいいのか。

 並べられた陳列棚ごと、巨大なゴミ捨て場に放り出された。

 雇い主の金メッキが剥がれ、一万の兵士たちは、ただの重たい青銅を纏った浮浪者へと瞬時に変質したのである。

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