喉元の穴、契約の蒸発
視界の奥。
分厚い黄土色のカーテンが、不意の突風で一瞬だけ横に引き剥がされた。
ペルシャ軍本陣の真ん中。
キュロス。
黄金の装甲が、不自然な角度で空を向いている。
馬の首の上。そこにあるはずの頭部の位置が、軸を失った独楽のごとくグラリと揺れた。
飛来した一本の粗末な槍。
それが、王子の顎の下、黄金の兜と胸当てのわずかな隙間、柔らかい気管のど真ん中へ正確に突き刺さった。
音はない。距離がある。
だが、喉元に空いた親指ほどの穴から、黒ずんだ赤色の液体が猛烈な圧力で噴出する物理的挙動は、網膜にはっきりと焼き付いた。
プシュ。
動脈血。血圧が作り出す完璧な放物線。
そのアーチが、風に流されて隣の騎兵の顔面にべっとりと張り付く。
重力。
黄金の塊が、馬の背から滑り落ちる。
スローモーションではない。ただの落下。重たい金属が土袋と一緒に地面に叩きつけられる、何の情緒もないズシンという動き。
兜の側頭部がバビロンの岩肌に激突する。
鈍くひしゃげた真鍮の反射。へこんだ表面に泥がこびりつく。
王子が地面で痙攣している。
右手の指先。
爪の間に泥を詰め込みながら、何かを引っ掻き回すように不規則にビクビクと跳ねている。
虫の足。
潰された甲虫が、神経の反射だけで動かしている六本の足の先端。
歴史家が「王者の最期」と呼ぶであろうその痙攣は、クセノフォンの目には、ただの不快な神経反射にしか見えなかった。
指先の動きが、やがて止まる。
泥の中に、完全に沈黙した肉の塊が一つ、ゴロンと転がっただけだ。
主を失ったニサイア馬だけが、口の端から白い泡を撒き散らしながら、狂ったように平原の彼方へ走り去っていく。その後ろ足の筋肉の、無駄に滑らかな収縮。
「おい、王様が馬から落ちたぞ」
右隣。イボ男が、手元の槍の血糊を敵の服で拭いながら、ひどく間の抜けた声を出した。
彼の左太ももに刺さった矢が、またブルンと揺れる。
「……死んだのか」
背後の男。
「首の骨が折れてる。たぶん血も足りない」
クセノフォンは乾いた唇の皮を前歯で噛みちぎりながら答える。鉄の味が舌に広がる。
「じゃあ誰が今日の分を払うんだよ」
イボ男が舌打ちをした。
ひどく現実的で、かつ致命的な疑問。
一万の歩兵陣形全体に、目に見えない巨大な波紋が広がっていく。
波紋の正体は、悲哀ではない。喪失感でもない。
純粋な、経理上のトラブルの発生。
契約の蒸発。
バビロンの乾燥した空気の中で、一万三千人分の雇用契約書が一瞬にして発火し、灰となって消え去った。
キュロスという巨大な財布が、今、ただの穴の開いた肉袋にダウングレードされた。
支払い能力ゼロ。
倒産。不渡り。
クセノフォンの胃袋の底に、ソフトボール大の冷たい鉛の塊がドスンと落ちてきた。
猛烈な疲労感。
右肘を叩き続けていた味方の盾の振動が、急に遠退く。
アドレナリンの供給停止。
足の小指のマメの痛みが、先ほどの三倍の強さで神経を直接ノコギリで挽き始める。痛い。ひどく痛い。
両足の裏が、急に自分の体重を支えきれなくなる感覚。
膝の関節にある軟骨が、すり減って完全に消滅したかのようなきしみ。
ただ働き。
この半日、赤土を吸い込み、他人の腸を踏み潰し、他人の血と胆汁の臭いを嗅ぎ続けた労働が、すべて無給の奉仕だったという事実。
ギリシャから歩いてきた数千キロの歩数が、ただの無意味な数字の羅列に変換される。
「ふざけんなよ」
後ろの男が、痰を吐き出すように呟いた。
怒りではない。ただの徒労。
王位簒奪。ペルシャ帝国の支配権。
そんなものは最初からどうでもよかった。
だが、明日の朝飯の麦粥を煮るための薪代。すり減ったサンダルを買い替えるための銀貨。
それが消えた。
神話的な悲劇などどこにもない。
ただ、日雇い労働者が現場の監督に給料を持ち逃げされた、ありふれた醜聞。
歴史の巨大な転換点が、あまりにもみみっちい日常の不満へと急速に矮小化していく。
クセノフォンは、槍の柄を握る右手の握力が、ずるずると抜けていくのを感じた。
トネリコの木の表面にこびりついた手汗が、急に冷たく、気持ち悪く感じられる。
木目に詰まった他人の脂肪の感触が、ただの汚物として手のひらを汚染している。
前線のペルシャ兵たちの動きが変わった。
彼らも気づいたのだ。
反乱軍の親玉が死んだ。
敵の動きが、統率を失い、波が引くようにバラバラと後退を始める。
追撃する理由が、こちらにはもう一ミリも残っていない。
雇い主がいないのに、誰が残業をするというのか。
青銅のムカデの足が、不規則に乱れる。 歩調が合わない。
ザク、ザクというリズムが、ズル、ベチャ、という締まりのない足音に変わる。
「おい、押すな。終わったんだよ」
イボ男が背後の男を盾で小突く。
終わった。
労働時間は終了した。
だが、退勤を書き込む台帳がない。
クセノフォンは、その場に立ち止まった。
砂埃が徐々に晴れていく。
足元には、腹を割かれて内臓をこぼした死体と、ハエがたかり始めた血だまり。
上空では、もう何羽かのハゲタカが旋回を始めている。
太陽は依然として容赦なく網膜を焼き続けている。
喉の渇きは限界を超え、舌が口内の上顎に完全に張り付いている。
剥がそうとすると、ビリッという痛みが走る。
ただの喉が渇いた、汗まみれの男。
それ以上でも以下でもない。
顧客を失った商品は、どうすればいいのか。
並べられた陳列棚ごと、巨大なゴミ捨て場に放り出された。
雇い主の金メッキが剥がれ、一万の兵士たちは、ただの重たい青銅を纏った浮浪者へと瞬時に変質したのである。




