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傭兵隊長クセノフォン  作者: 世間の果て
第七章:クナクサの断頭台
32/58

肉の損壊、あるいは労働の開始

 激突。

 巨大な肉の壁同士が、不器用な速度でめり込む。

 ベシャ。メキ。

 最前列のハゲ頭の男が、盾ごと後方に折れ曲がった。頸椎が砕ける湿った音。その後頭部がクセノフォンの鳩尾を強打する。胃袋の底で未消化の麦粥が大きく揺れた。猛烈な吐き気。酸っぱい胃液が食道を逆流し、舌の根元を焼く。

そのままハゲ頭の顔面を足の裏で踏み越える。労働環境の最前線への自動的な押し出し。


 目の前。ペルシャ兵の顔。濃い髭。髭の編み目に絡みついた白いパンの欠片。なぜ戦場でパンを食ったのか。どうでもいい。

 クセノフォンは右手のトネリコの槍を前に突き出した。

 筋肉の収縮。ただの力学。

 青銅の穂先が、敵の分厚い革鎧の腹部に到達する。

 わずかな抵抗。

 すぐ後、皮がプツリと裂け、刃が内部の密閉された暗闇へ侵入する。

 手首に伝わる、生温かいゼリーの感触。胃袋か、肝臓か。どろりとした高密度の液体を掻き分ける鈍い振動。

 ペルシャ兵の口が大きく開く。声帯は機能しない。代わりに、大量の黄色い胆汁が顎を伝って噴出する。

 強烈なアンモニア臭。

 長期間放置された公衆便所の底の尿の臭いが、クセノフォンの鼻腔の粘膜を直接殴る。右目の裏側がピクピクと痙攣する。

 引き抜く。

 柄を引く。抜けない。

 穂先の返しが、敵の肋骨の裏側にガッチリと噛み込んでいる。


「浅い。もう一回突け」

 隣のイボ男が、自分の槍を上下させながら吐き捨てる。彼の左太ももにはまだ矢が刺さったままだ。その矢の羽が、動くたびにクセノフォンの左手首をこすってひどく邪魔だ。

「槍の穂先が骨に噛んで抜けない。お前、こいつの顔を踏んでろ」

 クセノフォンは短い息を吐き出した。気管の奥で乾いた血の塊が鳴る。

 イボ男が無言で、丸盾の真鍮の縁をペルシャ兵の鼻梁に叩き込む。軟骨が完全に潰れる平坦な音。そのまま、イボ男のすり減ったサンダルが敵の頬骨を踏みつける。

 テコの原理。

 クセノフォンが両腕の広背筋を最大まで収縮させる。

 ゴリッ。

 骨が欠ける嫌な振動が柄を伝い、手のひらの皮を薄く剥く。

 抜けた。

 穂先には、赤と黄色の混ざった臓器の破片がべったりと張り付いている。

 それをそのまま、次の標的、横でうずくまる別のペルシャ兵の喉元へ水平にスライドさせる。

 作業。

 ただの工程だ。

 ここに憎悪はない。アテネの栄光もない。

 目の前の肉袋の機能を一つ停止させれば、自分の生存枠が一つ確定する。

 明日の干し肉の配分を確保するための、極めて単純な算術。

 ペルシャの強制徴募兵も、ギリシャの傭兵も、どちらも巨大な王の財布の端からこぼれ落ちた小銭に過ぎない。小銭同士がぶつかり合い、削り合い、少しでも体積を残した方が明日の朝日に照らされる。


 足元。

 踏み出した左足のサンダルの底が、奇妙な柔らかさを捉える。

 ずるり。

 足首が横に滑る。

 視線を落とす。先ほど死んだハゲ頭の腹からこぼれ落ちた、灰色の太い管。

 腸だ。

 内容物がパンパンに詰まったそれに、クセノフォンの体重が完全に乗りかかる。

 ぶちぶち、ぶちゅ。

 管が破裂し、未消化の豆と茶色い泥状の糞便が足の甲に飛び散る。

 生温かい。ひどく生温かい。

 サンダルの革紐の隙間から、他人の排泄物が足の指の間にぬるぬると入り込んでくる。

 不快感。

 だが足を拭う時間はない。

 立ち止まれば、後ろから押し寄せる味方の盾の圧力で背骨を折られる。巨大な推進機。個人の意思による停止は許されない。前進。刺す。引く。踏み潰す。

 ふと、敵の耳たぶで揺れる、安っぽい真鍮の耳飾りの緑青に目が吸い寄せられる。その緑色だけが、赤と茶色ばかりの視界の中で異常な鮮やかさを持って点滅している。

 なぜあんな安物を着けているのか。

 あの緑青の粉を舐めたら、どんな味がするのか。

 脳の辺縁系が、完全に無意味な情報処理を始める。網膜に焼き付いた緑色の残像。


 ペルシャ兵の曲刀が、クセノフォンの頭上を薙ぐ。

 空気を切るヒュッという音。兜の頂飾りの馬の毛が数本切り裂かれ、顔の前にハラハラと 落ちてくる。

 防ぐ必要はない。

 次の瞬間、イボ男の槍がそのペルシャ兵の脇の下に突き刺さっている。

 密集陣形の連携。

 戦友愛ではない。隣の部品が壊れれば自分の被弾率が上がるから、事前に障害物を排除しただけだ。相互監視と利己的なメンテナンス。

 イボ男が乾燥した舌打ちをする。

「重い。肉ばかり食ってるからだ」

「倒れる方向をコントロールしろ。こっちの足場が塞がる」

 クセノフォンは言いながら、前のめりに倒れてきた死体の首筋にサンダルの踵を落とす。

 頸動脈から吹き出した鮮血が、脛当ての青銅を赤黒く染める。


 槍の柄の木目。

 手汗と他人の血と脂肪で完全にコーティングされ、奇妙な粘着力を発揮し始めている。

 手が滑らない。完璧なグリップ。

 労働の効率が上がった。

 クセノフォンは奥歯を噛み締めた。顎の関節からキリキリという高い音が鳴る。

 肉の解体ラインは、まだ稼働を始めたばかりだ。太陽は天頂に張り付いたまままったく傾かない。日当の銀貨を受け取るまでの時間は、果てしなく、絶望的に長い。

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