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傭兵隊長クセノフォン  作者: 世間の果て
第七章:クナクサの断頭台
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青銅のムカデと砂の味

 ザク、ザク、ザク。

 数万のすり減った革サンダル(クレピス)が一斉に赤土を削り取る。バビロン平原。頭上の太陽が青銅の兜を直接焼き、脳髄の水分をじわじわと揮発させる。

一万の重装歩兵(ホプリタイ)。巨大な、多足歩行の青銅のムカデ。

細かい石英の粉塵が舞い上がる。肺の奥、気管支の粘膜に赤土がべっとりと張り付く。息を吸うたび、喉の奥でザラザラとした摩擦音が鳴る。

 右隣の男。メガラ出身。鼻の頭に黒いイボがある。そいつの左腕に固定された丸盾(ホプロン)の真鍮の縁が、歩くたびにクセノフォンの右肘の関節を叩く。ガツ。ガツ。ガツ。

尺骨神経を正確に直撃。親指と人差し指の付け根に、ビリビリと痺れが走る。

痛覚が脳に信号を送る。だが止まれない。

右からはイボ男の盾。左からは自分の盾。後ろからは、誰とも知らない男のすっぱい息と槍の柄。

 密集陣形(ファランクス)

 アテネの彫像が示す市民の調和。

 滑稽だ。ただの肉の圧搾機。個人の恐怖を物理的な圧力で挟み込み、逃亡の選択肢を奪う。前進する以外の機能を物理的に剥奪された、不器用な生体機械。


「前の奴、歩幅狭い。踵踏むぞ」

 真後ろから聞こえる乾いた声。声帯に水分がない。

「踏め。前の肉盾が倒れたら、お前が最前列に行くだけだ」

 イボ男が横から吐き捨てる。飛沫がクセノフォンの首筋に飛んだ。生温かく、ひどくネギの匂いがする。

 踏めばいい。肉盾の交代。順番の繰り上げ。それだけのことだ。


 密集陣形内部の異常な熱気。

 前後左右、隙間なく密着した男たちの体温が、逃げ場を失って陣形の中心に溜まり続ける。

数週間洗っていない革鎧に染み付いた羊脂。酸化した脂のきつい臭い。腋の下から立ち昇る、酢の腐った鋭い酸気。

 これらが重なり合い、ひとつの重たいゼリーの層を形成する。空気が固い。吸い込むのに肺の筋力を使う。

 咳をしたい。

 喉の奥の赤土の塊を吐き出したい。

 我慢。咳をすれば腹直筋が収縮し、歩調が〇・二秒遅れる。

 直後、後ろの男の盾が背中を小突く。転倒。数十個のサンダルによる顔面の完全圧壊。

 奥歯を噛み締める。顎の筋肉が痙攣する。

 眼球の裏側で、チカチカとオレンジ色の火花が散った。

 網膜の血管が異常な血圧で悲鳴を上げている。


 視界の端。

 イボ男の盾の表面。かつて描かれていたはずのメデューサの顔。塗料が剥げ落ち、右目が完全に潰れている。ただのへこみ。そのへこみに乾燥した泥が詰まり、奇妙な突起を作っている。

 萎びた老婆の乳首。

 クセノフォンは歩きながら、その泥の突起から目を離せなくなった。

 なぜ老婆の乳首がここにあるのか。

 どうでもいい。

 ただ、その突起の形状が、今この瞬間の宇宙の真理を含んでいる気がした。思ったが、すぐに忘れた。

 右肘を再び盾の縁が叩く。

 ガツ。

 しびれ。


 歴史家たちはこれを大軍の激突と呼ぶ。

 彼らは高い丘の上から、この青銅のムカデの美しい直線を羊皮紙に書き留める。

ここは下水道の底だ。

 他人の体臭と、自分の関節の痛み。視界は前の男の汗まみれのうなじと、揺れる赤いマントの切れ端だけ。

 遠くで、ペルシャ軍の太鼓が鳴っている。

 腹の底を揺らす低音。

 だがそれすら、右肘の痛みの前では単なる環境音のノイズに過ぎない。

 歩兵たちの脳内にあるのは、国家の存亡でもギリシャの栄光でもない。

 あと何歩でこの息苦しい熱気から解放されるか。

 明日の干し肉の配給は塩が効いているか。

 ただそれだけだ。

 機能。

 一ドラクマで買収された肉の塊。

 それらが指定された座標に向かって、設定された速度で移動を続ける。


 足の裏。サンダルの底の革はとっくにすり減り、厚さ数ミリしかない。

 その薄い膜越しに、バビロンの硬い石、乾いた馬の糞、砕けた貝殻の破片の感触が、直接 足の裏の真皮に突き刺さる。

 痛覚のカタログ。

 右足の小指のマメ。昨晩潰れた。そこへ赤土が侵入し、今、熱を持った膿の塊に成長している。

 一歩踏み出すたびに、小指から足首にかけて、細い熱した針を通される鋭い痛み。

 左手に握る盾の革帯。汗で滑る。

 右手に握る二・五メートルの(ドリ)

 トネリコの木を削り出した柄。手汗と脂を吸い込み、黒光りしている。

 重心。

 クセノフォンは親指と人差し指の間で、槍の微妙な重心のズレを感じる。

 昨晩、砥石で削りすぎた穂先。ほんの数グラムの軽量化。

 それが今、巨大な違和感となって右腕全体の筋肉を疲労させる。

 木材の繊維のささくれ。手のひらの皮を薄く削り取る。


「あと何スタディオンだ」

 斜め前、ハゲ頭の男が喘ぐ。

「測りたきゃ、自分の足跡の数を数えろ」

 後ろの男が唾を飛ばす。

 距離。時間の経過。

 ここではすべてが肉体の損耗度で計測される。

 太陽の角度。頭頂部を直火焼きにする角度から、ほんのわずかだけ西へ傾いた。

 兜の内部。

 青銅の裏側に密着した薄いフェルトの帽子。完全に汗を吸い込み、飽和状態。

 脳天から、生ぬるい液体の筋がこめかみを伝い、耳の穴に流れ込む。

 鼓膜の表面を、汗の滴が塞ぐ。

 外界の音が一段階くぐもる。

 水底で太鼓の音を聞く。ドン、ドン、ドン。

 ペルシャ軍の陣太鼓か、自分の心臓の拍動か。区別がつかない。


 この労働の対価。

 キュロス王子が約束した銀貨。

 その丸い金属片を胃袋に直接詰め込めば、この小指の痛みは消えるのか。

 消えない。

 銀貨は単なる概念。

 今ここにある確かな現実は、肘を叩く真鍮の縁と、耳の穴を埋める自分の汗だけ。


 ふと、前のハゲ頭の男が大きくつまずいた。

 地面に埋まっていた駱駝の頭蓋骨。

 男の体が右に傾く。

 密集陣形のシステムエラー。

 クセノフォンは無意識のうちに、右足の歩幅を半歩縮め、左肩を前に出す。

 ハゲ頭の背中を、自分の盾の表面で乱暴に押し返す。

 立て、クソ袋。

 声には出さない。喉が渇ききっている。

 ハゲ頭は無言で姿勢を立て直し、再びザク、ザクというリズムに溶け込む。

 部品の自動修復機能。

 誰の意思でもない。ただの生存本能の反射。

 前列が崩れれば、自分が前面に露出する。それを防ぐための物理的介入。


 空が、急に暗くなった。

 雲ではない。

 バビロンの白茶けた空を覆い尽くす、黒い線の群れ。

 数万の矢。

 空気を切り裂く高音の束。数万の蜂が頭蓋骨の中で羽ばたいている。

 雨。

「盾!」

 誰かが叫ぶ。

 いや、叫びを聞くより早く、一万の左腕が自動的に跳ね上がった。

 青銅の鱗が、頭上で完全に連結する。

 空が見えなくなる。

 視界は完全な暗闇と、足元の赤土だけになる。

 直後、頭上を叩く猛烈な霰の音。

 カン、キン、ガツ、ドス。

 青銅を弾く高い音。革を貫通する鈍い音。

 隣のイボ男の呼吸が、一瞬だけ止まる。

「ツァッ」

 舌打ち。

 イボ男の左太もも。革の隙間に、一本の矢が深々と突き立っている。

 黒い血が、赤土の地面にポタポタと垂れ始める。


「抜くか」

 クセノフォンは前を見たまま、ひび割れた唇を動かした。

「後でいい。まだ歩ける」

 イボ男は矢が刺さったままの足を、そのまま前に踏み出した。

 ザク。

 痛覚の麻痺。労働の継続。

 青銅のムカデは、体に無数の棘を刺したまま、一切の速度を落とさずに前進を続ける。

 ただの巨大な肉の塊。

 機能の遂行。

 前方のペルシャ軍の歩兵の顔が、埃の向こうにぼんやりと見え始めた。

 白目。口髭。恐怖で引き攣った頬の筋肉。

 解体作業の対象物。

 クセノフォンは右手の槍の柄を、ギリッと握り直した。

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