青銅のムカデと砂の味
ザク、ザク、ザク。
数万のすり減った革サンダルが一斉に赤土を削り取る。バビロン平原。頭上の太陽が青銅の兜を直接焼き、脳髄の水分をじわじわと揮発させる。
一万の重装歩兵。巨大な、多足歩行の青銅のムカデ。
細かい石英の粉塵が舞い上がる。肺の奥、気管支の粘膜に赤土がべっとりと張り付く。息を吸うたび、喉の奥でザラザラとした摩擦音が鳴る。
右隣の男。メガラ出身。鼻の頭に黒いイボがある。そいつの左腕に固定された丸盾の真鍮の縁が、歩くたびにクセノフォンの右肘の関節を叩く。ガツ。ガツ。ガツ。
尺骨神経を正確に直撃。親指と人差し指の付け根に、ビリビリと痺れが走る。
痛覚が脳に信号を送る。だが止まれない。
右からはイボ男の盾。左からは自分の盾。後ろからは、誰とも知らない男のすっぱい息と槍の柄。
密集陣形。
アテネの彫像が示す市民の調和。
滑稽だ。ただの肉の圧搾機。個人の恐怖を物理的な圧力で挟み込み、逃亡の選択肢を奪う。前進する以外の機能を物理的に剥奪された、不器用な生体機械。
「前の奴、歩幅狭い。踵踏むぞ」
真後ろから聞こえる乾いた声。声帯に水分がない。
「踏め。前の肉盾が倒れたら、お前が最前列に行くだけだ」
イボ男が横から吐き捨てる。飛沫がクセノフォンの首筋に飛んだ。生温かく、ひどくネギの匂いがする。
踏めばいい。肉盾の交代。順番の繰り上げ。それだけのことだ。
密集陣形内部の異常な熱気。
前後左右、隙間なく密着した男たちの体温が、逃げ場を失って陣形の中心に溜まり続ける。
数週間洗っていない革鎧に染み付いた羊脂。酸化した脂のきつい臭い。腋の下から立ち昇る、酢の腐った鋭い酸気。
これらが重なり合い、ひとつの重たいゼリーの層を形成する。空気が固い。吸い込むのに肺の筋力を使う。
咳をしたい。
喉の奥の赤土の塊を吐き出したい。
我慢。咳をすれば腹直筋が収縮し、歩調が〇・二秒遅れる。
直後、後ろの男の盾が背中を小突く。転倒。数十個のサンダルによる顔面の完全圧壊。
奥歯を噛み締める。顎の筋肉が痙攣する。
眼球の裏側で、チカチカとオレンジ色の火花が散った。
網膜の血管が異常な血圧で悲鳴を上げている。
視界の端。
イボ男の盾の表面。かつて描かれていたはずのメデューサの顔。塗料が剥げ落ち、右目が完全に潰れている。ただのへこみ。そのへこみに乾燥した泥が詰まり、奇妙な突起を作っている。
萎びた老婆の乳首。
クセノフォンは歩きながら、その泥の突起から目を離せなくなった。
なぜ老婆の乳首がここにあるのか。
どうでもいい。
ただ、その突起の形状が、今この瞬間の宇宙の真理を含んでいる気がした。思ったが、すぐに忘れた。
右肘を再び盾の縁が叩く。
ガツ。
しびれ。
歴史家たちはこれを大軍の激突と呼ぶ。
彼らは高い丘の上から、この青銅のムカデの美しい直線を羊皮紙に書き留める。
ここは下水道の底だ。
他人の体臭と、自分の関節の痛み。視界は前の男の汗まみれのうなじと、揺れる赤いマントの切れ端だけ。
遠くで、ペルシャ軍の太鼓が鳴っている。
腹の底を揺らす低音。
だがそれすら、右肘の痛みの前では単なる環境音のノイズに過ぎない。
歩兵たちの脳内にあるのは、国家の存亡でもギリシャの栄光でもない。
あと何歩でこの息苦しい熱気から解放されるか。
明日の干し肉の配給は塩が効いているか。
ただそれだけだ。
機能。
一ドラクマで買収された肉の塊。
それらが指定された座標に向かって、設定された速度で移動を続ける。
足の裏。サンダルの底の革はとっくにすり減り、厚さ数ミリしかない。
その薄い膜越しに、バビロンの硬い石、乾いた馬の糞、砕けた貝殻の破片の感触が、直接 足の裏の真皮に突き刺さる。
痛覚のカタログ。
右足の小指のマメ。昨晩潰れた。そこへ赤土が侵入し、今、熱を持った膿の塊に成長している。
一歩踏み出すたびに、小指から足首にかけて、細い熱した針を通される鋭い痛み。
左手に握る盾の革帯。汗で滑る。
右手に握る二・五メートルの槍。
トネリコの木を削り出した柄。手汗と脂を吸い込み、黒光りしている。
重心。
クセノフォンは親指と人差し指の間で、槍の微妙な重心のズレを感じる。
昨晩、砥石で削りすぎた穂先。ほんの数グラムの軽量化。
それが今、巨大な違和感となって右腕全体の筋肉を疲労させる。
木材の繊維のささくれ。手のひらの皮を薄く削り取る。
「あと何スタディオンだ」
斜め前、ハゲ頭の男が喘ぐ。
「測りたきゃ、自分の足跡の数を数えろ」
後ろの男が唾を飛ばす。
距離。時間の経過。
ここではすべてが肉体の損耗度で計測される。
太陽の角度。頭頂部を直火焼きにする角度から、ほんのわずかだけ西へ傾いた。
兜の内部。
青銅の裏側に密着した薄いフェルトの帽子。完全に汗を吸い込み、飽和状態。
脳天から、生ぬるい液体の筋がこめかみを伝い、耳の穴に流れ込む。
鼓膜の表面を、汗の滴が塞ぐ。
外界の音が一段階くぐもる。
水底で太鼓の音を聞く。ドン、ドン、ドン。
ペルシャ軍の陣太鼓か、自分の心臓の拍動か。区別がつかない。
この労働の対価。
キュロス王子が約束した銀貨。
その丸い金属片を胃袋に直接詰め込めば、この小指の痛みは消えるのか。
消えない。
銀貨は単なる概念。
今ここにある確かな現実は、肘を叩く真鍮の縁と、耳の穴を埋める自分の汗だけ。
ふと、前のハゲ頭の男が大きくつまずいた。
地面に埋まっていた駱駝の頭蓋骨。
男の体が右に傾く。
密集陣形のシステムエラー。
クセノフォンは無意識のうちに、右足の歩幅を半歩縮め、左肩を前に出す。
ハゲ頭の背中を、自分の盾の表面で乱暴に押し返す。
立て、クソ袋。
声には出さない。喉が渇ききっている。
ハゲ頭は無言で姿勢を立て直し、再びザク、ザクというリズムに溶け込む。
部品の自動修復機能。
誰の意思でもない。ただの生存本能の反射。
前列が崩れれば、自分が前面に露出する。それを防ぐための物理的介入。
空が、急に暗くなった。
雲ではない。
バビロンの白茶けた空を覆い尽くす、黒い線の群れ。
数万の矢。
空気を切り裂く高音の束。数万の蜂が頭蓋骨の中で羽ばたいている。
雨。
「盾!」
誰かが叫ぶ。
いや、叫びを聞くより早く、一万の左腕が自動的に跳ね上がった。
青銅の鱗が、頭上で完全に連結する。
空が見えなくなる。
視界は完全な暗闇と、足元の赤土だけになる。
直後、頭上を叩く猛烈な霰の音。
カン、キン、ガツ、ドス。
青銅を弾く高い音。革を貫通する鈍い音。
隣のイボ男の呼吸が、一瞬だけ止まる。
「ツァッ」
舌打ち。
イボ男の左太もも。革の隙間に、一本の矢が深々と突き立っている。
黒い血が、赤土の地面にポタポタと垂れ始める。
「抜くか」
クセノフォンは前を見たまま、ひび割れた唇を動かした。
「後でいい。まだ歩ける」
イボ男は矢が刺さったままの足を、そのまま前に踏み出した。
ザク。
痛覚の麻痺。労働の継続。
青銅のムカデは、体に無数の棘を刺したまま、一切の速度を落とさずに前進を続ける。
ただの巨大な肉の塊。
機能の遂行。
前方のペルシャ軍の歩兵の顔が、埃の向こうにぼんやりと見え始めた。
白目。口髭。恐怖で引き攣った頬の筋肉。
解体作業の対象物。
クセノフォンは右手の槍の柄を、ギリッと握り直した。




