言葉の死、暴力の産声
キィ。
不快な高音が、直接、頭蓋骨の裏側を引っ掻いた。
キィ、ギャリ。
手元の砥石。乾いた石の表面を、青銅の剣の腹が滑る。角度が悪い。刃先が石の細かい窪みに引っかかり、指の付け根の関節に鈍い振動を返す。手首の腱がピクンと痙攣した。
クセノフォンは奥歯を強く噛み合わせた。顎の筋肉が硬直する。
右手の親指の付け根。マメが破れて剥き出しになった真皮に、細かい鉄の粉が突き刺さっている。痛覚が脳に信号を送る。それを無視して、さらに手首を押し込む。
キィ。
夜の野営地。バビロンの巨大な防壁を遠くに睨む平原。
風は止まった。数万の人間の体臭と、焚き火の不完全燃焼の煙が、見えない分厚い毛布となって地面にへばりついている。息を吸うたびに、他人の肺から吐き出された生ぬるい二酸化炭素と腐った胃液の匂いが、自分の気管に流れ込んでくる。
額の汗。
左の眉毛を伝い、鼻の側面を滑り落ちた一滴の体液が、顎の先端から砥石の上に落下した。
ポツ。
汗は一瞬で石の微細な孔に吸い込まれる。そこへ剣の刃を擦り付ける。削り取られた金属の粉と、汗の塩分、皮膚の垢、それに昼間浴びた赤土が混ざり合う。黒ずんだ灰色の、粘り気のある研ぎ汁。
ひどく饐えた匂いが立ち昇った。
発酵を通り越して腐敗に向かう古いチーズと、酸化した血の匂い。自分の体から出たものだ。
クセノフォンはその泥色のペーストを、無表情に指の腹で拭い取った。そのまま、刃の表面に薄く塗り拡げる。鉄の冷たさが、指先の皮膚の熱を急速に奪っていく。
刃こぼれがある。
柄から三寸ほどの場所。半月型にわずかに欠けた部分。その欠け方の曲線が、昼間にメガラ出身の男の革鎧から飛び出していた三本の繊維の角度と完全に一致している。
どうでもいい。
その欠けた部分に親指の腹を押し当てる。力を込める。
皮膚の表面が薄く切れ、微かに赤い線が滲む。痛い。
だが、その微小な物理的切断の感触が、なぜか胃の底のむかつきを少しだけ鎮めた。
俺の手にあるのは、ただの重みを持った不格好な金属の板だ。
人間の形をした肉袋。その表面の皮を裂き、内側にある温かい臓器の塊に直接触れるための、極めて単な力学の道具。
アテネの学堂。大理石の柱の陰。
老ソクラテスが口角に唾を溜めながら語っていた、善、美徳、共同体の調和。
クセノフォンは鼻から短く息を吐いた。気道にこびりついた痰が、ゼーと鳴る。
それらの言葉はすべて、今朝方、肥大した舌の傷口から流れ出た血と一緒に地面に吐き捨てた。言葉の死骸は、バビロンの糞尿の風に吹かれて完全に蒸発した。
世界を解釈する?
滑稽だ。世界の解釈など、この青銅の板が一閃し、敵の首の動脈から赤い液体が噴き出すまでの〇・三秒間で終わる。
真理は、肉の抵抗と骨を断つ振動の中にしかない。
「……祈ったか」
背後。
声の主はわからない。昼間、指を折って敵の数を数えていたシラクサの軽装歩兵かもしれない。あるいは、恐怖で声帯の筋肉が弛緩しきった見知らぬ少年兵かもしれない。
ひどく掠れた、湿り気のない音声。
クセノフォンは振り向かない。
焚き火の赤い光が、手元の刃に鈍く反射している。研ぎ汁の模様が、奇妙な顔の形に見えた。左目が潰れた、豚の顔だ。
「神に」
背後の声が、もう一度繰り返した。縋るような、卑屈な震えが混じっている。
ゼウス。アレス。アテナ。
神殿の祭壇で羊の腹を裂き、内臓の形で吉凶を占う。その内臓に群がる蠅。青銅の器に投げ込まれる硬貨の響き。デルポイの硫黄の匂い。
それらが一気に脳裏にフラッシュバックする。
クセノフォンの腹の底で、暗い泥がボコボコと沸騰した。
神。
そんなものがこの熱気と排泄物の平原にいるなら、今すぐ引きずり出して、この刃の研ぎ具合を試すための最初の肉袋にしてやる。
「祈ったか、だと?」
クセノフォンは、独り言のように低く呟いた。
右手に剣の柄を握り込む。
そのまま手首の力を抜き、刃を水平に保つ。金属の塊が、重力に従ってわずかに下へ引っ張られる。その完璧な力学の均衡。
「剣の重心に祈った」
喉の奥の傷が痛み、鉄の味が唾液に混ざる。それをそのまま飲み込む。
「こいつが俺のゼウスだ」
背後の男は、何かを言いかけたが、やがて小さく咳き込み、地面にうずくまる布の擦れる音だけが聞こえた。
対話は終了した。
いや、対話など最初から存在しなかったのだ。
クセノフォンは再び、刃を砥石に押し当てる。
ギャリッ。
言葉による世界への介入は、完全に機能を停止した。
残されたのは、明日の朝、あの地平線を埋め尽くす黒い肉の壁に対して行う、物理的な解体の作業手順だけだ。
突く。引く。骨に当たれば角度を変える。
それだけだ。そこには憎悪すら必要ない。ただの過酷な肉体労働。日当一ドラクマ分のカロリー消費。
指先から肘にかけての筋肉が、無意識のうちに小刻みに痙攣を始めた。恐怖ではない。純粋な暴力の産声が、神経線維を無理やり拡張させているのだ。
明日の朝飯の時間を告げるラッパが鳴るまで、俺はこの鉄の板の表面積をひたすら削り続ける。
自分の存在が、ただの鋭利なエッジへと完全に還元されていく。
その猛烈な空洞の快楽に、クセノフォンは暗闇の中で歯を剥き出しにして嗤った。
乾いた唇の傷が大きく裂け、生温かい血が顎を伝ったが、拭う気すら起きなかった。




