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傭兵隊長クセノフォン  作者: 世間の果て
第六章:バビロンの陽炎
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バビロンの防壁、算術の限界

 視界の右下。乾燥した土塊の影。

 黄色い節くれ立った異物がある。蠍の死骸だ。尾の先端の毒針が、不自然な角度で空を指したまま硬直している。六つの節。クセノフォンは歩きながら、その節の数を数えた。一、二、三。すり減ったサンダルの踵が、その脆い甲殻を真上から踏み潰す。パキッ。薄い骨を踏み折る貧相な破裂音。体液すらない。ただのカルシウムの残骸。俺たちの胃袋と同じ空洞。


 足の裏に伝わったわずかな崩壊の感触を、脳は異常なまでに克明に記録した。

 風向きが変わった。

 熱風の塊が、顔面の皮膚にべったりと衝突する。

 強烈な刺激臭。鼻腔の粘膜が一瞬で焼け焦げたかと錯覚するほどの、濃密なアンモニアと硫黄と腐敗した草の混合物。

 数万の馬、駱駝、象、そして無数の人間の直腸から排出された未消化物の発酵ガスだ。大気の底を這うように押し寄せてきたその生々しい糞尿の匂いが、肺の奥底に直接へばりつく。内臓が痙攣を起こす。吐き気が胃の壁を引っ掻くが、吐くべき内容物がそもそも存在しない。ただ黄ばんだ胃液の匂いが食道を逆流し、外からの排泄物の匂いと口内で混ざり合うだけだ。


 顔を上げる。

 地平線の白茶けた輪郭が、おかしい。

 網膜の端から端まで、黒いカビの帯が張り付いている。

 それは不規則に波打ち、微小な粒子の集合体として蠢き、確実にこちらへ向かって面積を拡大していた。バビロンの防壁。いや、防壁の手前で広がる途方もない肉の海。


 ペルシャ兄王アルタクセルクセスがアジア全土から掻き集めた、暴力の総量。

 無数の蹄と足裏が叩き出す微振動が、赤土を通じてクセノフォンの足首の骨に直接響く。

 ビリ、ビリ、ビリ。巻き上がる巨大な砂煙の壁が、空の天井を物理的な重量で押し下げている。酸素が薄くなる幻覚。


 右隣を歩く男。シラクサ出身の軽装歩兵。

 男は、歩調を崩さずに左手の指を不自然な速度で曲げ伸ばししていた。彼の親指の爪は斜めに割れ、黒い血がこびりついている。一、二、十、百、千。男の唇がブツブツと細かく震え、乾燥した唾液の泡を空中に飛ばす。指の関節がポキポキと鳴る。

 男の網膜に映っているのは敵兵の姿ではない。ただの算盤の玉だ。

 「敵の数だ。数えろ」

 クセノフォンの口から滑り落ちた音は、ひどく嗄れていた。舌の傷口がまた開き、鉄の味が唾液に混じる。

 シラクサの男は、親指を無理やり手のひらに押し付け、割れた爪の付け根から新しい血を滲ませた。赤い滴が土に落ちる。

「銀貨の枚数を超えた。計算は終わりだ」

 男の声は、奇妙なほど明るく、そして完全に焦点が合っていなかった。

 日当一ドラクマ。ダレイコス金貨一か月の約束。

 俺たちの命の今日の相場。

 相手が二倍なら、確率はこうだ。三倍なら、こうだ。重装歩兵の密集隊形ファランクスの突圧力とペルシャの軽歩兵の装甲の薄さを掛け合わせ、死の危険度と報酬の額を天秤にかける。アテネの市場で魚の鮮度と銅貨を交換するのと同じ、極めて論理的な損益計算。

 だが、あの地平線を埋め尽くす黒い肉の帯は。

 三十倍か。五十倍か。百倍か。


 圧倒的な質量の概念を脳の処理装置に放り込んだ瞬間、天秤の支点が物理的にへし折れた。算盤の玉が弾け飛び、頭蓋骨の内側にパラパラと散らばる音がする。

 取引不成立。

 俺たちの肉の価値は、風が運んでくるあの巨大な排泄物の匂いの前で、完全にゼロに暴落した。

 ゼロだ。いくら頭をひねってもゼロだ。


 その絶対的な無価値が確定した瞬間、クセノフォンの腹の底から、粘り気のある黒い笑いがせり上がってきた。

 破産を宣告された高利貸しの、痙攣する安堵。

 アテネの損益計算書は燃え尽きた。アゴラの論理はここで終了だ。死ぬ確率が百パーセントを超えたなら、もう未来の配当を気にする必要はない。


 猛烈な解放感。

 指の先から首筋へ、冷たい電流が走る。

 もはや、国家の誇りも、師の教えも、自身の命の値段すらも、一切のノイズだ。

 残されたのは、ただあの巨大な黒い肉の波に向かって直進し、槍の青銅の穂先で未知の臓器の感触を確かめるという、純粋で無機質な作業の予感だけ。

 敵が人間である必要すらない。あれはただの刈り取られるべき麦の束だ。いや、麦ですらない。空間を埋める無駄な障害物。


 クセノフォンは、右手の槍の柄を握り直した。

 手のひらの豆の裂け目に、木目のささくれが深く食い込む。鋭い痛覚。

 その痛みが、今ここにある唯一の真実だった。


 バビロンの黒い影が、太陽の光を遮り始める。気温は下がらない。むしろ、何万という人間の体温が放つ熱気が、物理的な圧力となって押し寄せてくる。

「終わったな」

 シラクサの男が笑った。

「ああ。始まる」

 クセノフォンは短く吐き捨てる。足元の石を蹴り飛ばした。石は乾いた音を立てて前方の砂埃のなかへ消えた。

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