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傭兵隊長クセノフォン  作者: 世間の果て
第六章:バビロンの陽炎
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プロクセノスの水袋

 網膜の裏側にまで赤土の微粒子が入り込んでいる。

 まばたきをするたびに、眼球の表面をヤスリが削る。ザラ、ザラ、ザラ。涙腺は数時間前に完全に枯渇した。眼球の白い部分は不気味な黄褐色に変色し、無数の毛細血管がミミズのように蠢いている。視界の端が熱波でぐにゃぐにゃと歪み、地平線と空の境界線が溶解していた。


 視界の中心。

 山羊の毛皮で作られた水袋。

 縫い目が極度の乾燥で引きつっている。七つの縫い目。そのうち下から三番目の麻糸だけが、黒ずんだ手垢でひどく汚れている。その糸の結び目が、乾燥した皮の表面に落とす数ミリの影。クセノフォンは、その影の輪郭だけを、脳の処理能力のすべてを傾けて凝視した。

 チャプ。

 内部で重力が偏る音。

 周囲の空間が、その一音だけで物理的に凍りついた。数十人の重装歩兵の首が一斉に回る。油の切れた青銅の蝶番が鳴るような、ギギギという集団の頸椎の摩擦音。


 プロクセノスが立っている。

 かつて高価な香油で撫で付けられていた彼の見事な髪は、今や赤土と皮脂で固まった惨めな兜のクッションに過ぎない。彼は、ひび割れた両手で、その萎びた水袋を胸の高さに丁重に掲げていた。彼の右手の薬指にはめられたペルシャ製の黄金の指輪だけが、バビロンの殺人光線を反射して無神経に輝いている。

 「落ち着け」

 プロクセノスが口を開く。

 その瞬間、彼の下唇の巨大な裂け目から、粘度の高いドス黒い血が球体となって滲み出した。血は垂れない。重力に従うだけの水分すらなく、ただゼリー状に膨らんで唇にへばりついている。

「我々はアテネの市民だ。ギリシャの誇りだ。欲望のままに奪い合う野蛮人ではない。列を作れ。規律を示せ。徳の高さに従って、この最後の配分を……」

 言葉。

 音声の羅列。

 その無意味な空気の振動が、クセノフォンの鼓膜を不快に叩く。強烈な吐き気がした。胃の底で、消化液の残骸が酸っぱいガスとなって食道を逆流してくる。

 徳。配分。規律。

 目の前の男は、頭蓋骨の中身を太陽に完全に蒸発させられたらしい。ひどく滑稽な自動人形だ。血の塊を唇にくっつけたまま、ひたすら壊れた演説機械として作動している。

 クセノフォンは一歩踏み出した。

 すり減ったサンダルの底が、乾燥した土の塊を無慈悲に粉砕する。

「アテネの教養でこの水が増えるか」

 喉から出た声は、自分でも驚くほど低く、金属的だった。声帯にこびりついた痰が、ビリビリと不快な共鳴を起こす。

 プロクセノスの充血した瞳孔が、微かに収縮した。

「増えない。飲む姿勢を美しくするだけだ」

 彼は真顔で答えた。狂っている。極限の渇きのなかで、まだ見えない観客に向けて悲劇の舞台役者を演じている。

「俺は四つん這いで犬の真似をして飲む。寄こせ」

 交渉はそこで終了した。

 クセノフォンの右腕が跳ね上がる。プロクセノスの手首を、骨が軋むほどの力で握り潰す。

「あっ」

 短い悲鳴。プロクセノスの指から水袋が滑り落ちる。

 それを、クセノフォンは空中で鷲掴みにした。手の中の、山羊の荒い毛の感触。

 背後で、数人の兵士が獣の唸り声を上げて殺到してくる気配。クセノフォンは振り返りもせず、左足の青銅の脛当てを後方へ乱暴に蹴り上げた。ゴツ、という硬い感触。誰かの膝蓋骨を粉砕する音。くぐもった絶叫。


 どうでもいい。

 地面に膝をつく。四つん這い。

 水袋の木製の栓を、自身の黒ずんだ歯で直接噛み、首の力で強引に引っこ抜く。

 腐った木屑が口内に散らばる。舌の裏側に刺さる痛覚。

 そのまま水袋を逆さにし、顔面に押し当てた。

 生ぬるい流体。

 山羊の汗の匂い、泥の粒子、長期間放置された水特有の腐敗臭。それらが一斉に、干からびた口腔粘膜に激突してくる。

「グッ、ガ、グフッ」

  気管に水が入り込み、激しくむせる。鼻の穴から泥水が逆流し、砂埃で汚れた顔面に二筋の黒い線を描いて滴り落ちた。

 それでも嚥下を止めない。喉仏が、狂ったように上下運動を繰り返す。食道というただの肉の管が、強引に押し込まれる質量によって不自然に拡張する暴力的な感覚。


 液体のなかに、小さな異物が混ざっていた。死んだ蟻だ。

 奥歯で蟻の甲殻を噛み砕く。プチッという微小な破裂音。蟻の体液の酸味が、泥水に奇妙なアクセントを加える。そのまま胃袋へと流し込む。

 内臓のひきつるような痙攣が、ピタリと止まった。

 空っぽになった革袋を、真横に放り投げる。

 ボロ布のように萎んだソレに、後ろから群がってきた四人の兵士が飛びついた。彼らは革の表面にわずかに残った湿り気を、互いの眼球を指でえぐり合いながら、狂ったように舐め回し始めた。砂と血と唾液の混ざった泥這いの儀式。


 クセノフォンはゆっくりと立ち上がる。

 顎から垂れた泥水を、手の甲で乱暴に拭う。ザラッとした砂の感触が皮膚を引っ掻く。

 プロクセノスが、呆然とこちらを見ていた。彼の手は、まだ空中で水袋を掲げるような形をとったまま硬直している。高尚な配分者のポーズ。見えない神聖な壺でも持っているかのように。

 その虚無の姿勢のまま、プロクセノスの唇から、ついに黒い血の滴りが重力に負けて顎へと落下した。


 美しさ。

 アテネの法。

 クセノフォンは鼻で笑おうとしたが、気道がヒューと鳴っただけだった。胃のなかで、泥水と死んだ蟻がゆっくりと体温に馴染んでいく生々しい重みだけが、今の彼における唯一の絶対的な真理として腸の奥で蠢いていた。

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