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傭兵隊長クセノフォン  作者: 世間の果て
第六章:バビロンの陽炎
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砂に沈む車輪、積載された野望

 巨大な木の円盤が、柔らかい赤土を貪り食っている。

 ペルシャ王子の輜重隊。果てしなく続く鈍重な百足の列。

 目の前の車輪。縁に打ち付けられた鉄の鋲が不規則に歪んでいる。三番目の鋲だけが少し欠けている。欠けた断面が赤黒く錆び、細かいひび割れが走っている。そのひび割れの形状を網膜が異常な解像度で捉える。どうでもいい。だが目線を外せない。


 車軸の周りにべったりとこびりついた駱駝の糞。緑色を帯びた黒いペースト。熱で半ば発酵し、鼻腔の奥を直接突き刺す酸っぱい異臭を放っている。

そこへ、素手を押し当てる。

 指の股から、ぬるりとした汚物がはみ出す。爪の間に黒く詰まる。糞と、泥と、誰かの血の混合物。

「押せ」

 誰かが掠れた声で喚く。

 腰を落とす。すり減ったサンダルの底が、流動する砂に沈み込む。足指の関節を曲げ、地面を掴もうとするが、砂は無機質に崩れるだけだ。

 腰椎の四番目と五番目のあいだにある軟骨が、ギリ、ギリと物理的な悲鳴を上げる。背骨全体が嫌な角度で湾曲する。頭蓋骨の底で、骨と骨が直接こすれ合う白い音が響く。

動かない。

 巨大な木の構造物は、人間の臀部から太ももにかけての筋肉繊維を一本残らず断裂させるつもりで、そこにある。ただの重力。純粋な質量。

「王子のワイン瓶を運ぶ。俺の椎間板の値段だ」


 左隣。ハルカディスという名の、肩に古い刀傷のある男。顔面を真っ赤に充血させ、頸動脈を異様に浮き立たせている。

「瓶が割れたら土を舐めろ」

 クセノフォンは短く吐き捨てる。肺の底から押し出された空気は、ひどく乾いた咳に変わる。

 ハルカディスは目を血走らせ、口角から白い泡を吹いた。

「王の弟。アジアの覇者。その偉大な野望が、いま俺の右肩の腱を引きちぎろうとしている。光栄だ。大層な名誉だ。俺の筋肉の断裂音は、ペルシャの年代記に記録されるか」

 卑屈な歓喜。男は狂乱の笑い声を漏らし、さらに肩を車輪に押し付ける。青銅の胸当てが歪む嫌な音。


 クセノフォンの胃袋の底で、黒い塊が持ち上がる。

 そうだ。俺たちは今、王冠という名の粗大ゴミを運んでいる。

 豪華な天幕。金銀の細工物。ハレムの女たちの香油。それらがすべて、この腐りかけた木の箱の中に詰め込まれ、俺たちの肉体をすり潰すための単なる重りとして機能している。

政治的野心。王位簒奪。大義。

 それらの言葉はすべて、いま、クセノフォンの指の股に挟まった駱駝の糞の感触に完全に還元されている。

 

 歴史の転換点。

 否。ただ車輪が砂に十センチ沈んだだけだ。

 ビシッ。

 空気を切り裂く破裂音。

 馬車の上。ペルシャ人の御者が、革の鞭を振るった。

 御者の左頬にある、潰れた葡萄の形状の黒子。その黒子の上の毛穴から、玉の汗が吹き出している。

 鞭の先端は、誰の肉体も打たない。ただ虚空を叩き、荷馬車の木枠をパチンと弾いた。完全に無駄なエネルギーの消費。

 御者の眼球が、神経質にピクピクと痙攣している。彼は怯えている。止まることを。前進しないことを。

「動かせ。ギリシャの犬ども」

 ペルシャ語の罵声。意味は音の響きでわかる。

 犬。上等だ。

 クセノフォンは奥歯を噛み締める。顎の筋肉が硬直する。

 俺はアテネの市民ではない。ペルシャ王子の飼い犬でもない。ただの梃子(てこ)だ。力学的な支点。肉体という名の道具。

 自らを完全にモノへと貶める猛烈な羞恥。

 だが、その羞恥のどん底に、奇妙な甘い麻痺がある。

 責任はない。思想もない。ただ目の前の木塊を押し出す。筋肉の収縮と弛緩。それ以外のすべてを放棄する極端な快楽。俺は歯車だ。血の通った、汚物まみれの歯車。


「ウオオオッ」

 誰かが絶叫する。

 ハルカディスの肩から、ブチッという鈍い音が鳴った。筋繊維が千切れた音だ。

 男の姿勢が崩れる。だが車輪から離れない。離れられない。

 クセノフォンはさらに力を込める。掌のささくれが深く肉に食い込む。血が滲む。その血が駱駝の糞と混ざり、天然の潤滑油となる滑稽さ。


 箱のなかの黄金。箱の外の泥。

 その隔たりを埋めるのは、ギリシャ人のすり減った軟骨だけだ。

 ズズズ。

 車輪が、ほんの数ミリ、砂を押し退けて前進する。

 抵抗。摩擦。重力。

 それらをねじ伏せたのは、神の意思でも王子のカリスマでもない。

 単に、ハルカディスの右肩の機能と引き換えに発生した、一時的な物理的推力。

「動いた。動いたぞ」

 馬車が再び鈍重な歩みを開始する。

 クセノフォンは車輪から手を離す。

 膝から崩れ落ちそうになるのを、槍の柄を地面に突き立てて堪える。

 掌を見る。

 赤と黒と緑の混ざった、ひどい臭いのする粘液。

 これが、ペルシャ帝国の玉座の匂いだ。

 クセノフォンは、その汚れた掌を、自身の革鎧の脇腹に乱暴にこすりつけた。染みが一つ増えた。ただそれだけのことだ。


 前方の巨大な砂埃のなかへ、荷馬車はきしみながら消えていく。

 息を整える間もない。

 次の車輪が来る。

 クセノフォンは乾いた唇を舐めた。鉄の味が、少しだけ濃くなっていた。

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