銅のオーブンと肥大する舌
裏張りの劣悪なフェルト地は二日前の汗を吸い込んだまま石に硬化し、側頭部の皮膚を容赦なく削り取っている。左耳の少し上。水ぶくれが弾けた。ぬるりとした黄色い体液が、泥と混ざって耳たぶの裏を這い下りてくる。拭う気力はない。右腕は槍の柄を握りしめたまま、完全に死後硬直を起こしている。
木材の表面のわずかなささくれが、手のひらの豆の破れた隙間に食い込む。チクチクとした微小な痛覚。どうでもいい。どうでもいいはずなのに、意識はそのささくれの形状ばかりを克明に想像し続ける。松の木か。杉か。伐採した奴の斧の刃こぼれが作ったささくれか。アテネの港で食った小魚の骨が歯のあいだに挟まったときの感触。違う。いまは槍の柄だ。
ザク、ザク。
一万三千のサンダルが、乾燥しきった大地を粉砕する単調なリズム。
巻き上がる土埃が、そのまま気管へと侵入してくる。足元。誰かが落とした兜の飾りの馬毛が、乾燥した土の上に転がっている。熱風に吹かれ、多足の虫に変態してカサカサと地面を這う。それを、後続の兵士のすり減ったサンダルが無表情に踏み躙り、ただのゴミとして土埃のなかに沈めた。
首の骨が軋む。兜の重みが、頸椎の一つ一つを押し潰す。骨と骨が直接こすれ合い、白い粉を吹く不快な幻覚。
前を歩くメガラの男。男の背中を取り巻く革鎧の肩紐。その左側の結び目から、革の繊維が三本、鳥の羽の形で飛び出している。一本は茶色、二本は黒。その繊維が歩行の振動に合わせて、微かに上下に揺れる。
クセノフォンは、過去二時間、ただその三本の繊維の揺れだけを見つめていた。それが止まれば世界が終わるか。
いや、終わってくれたほうがマシだ。
息を吸う。
熱風が鼻腔の粘膜を焼き切る。
口のなか。異物が詰まっている。
舌だ。
舌という器官が、本来のサイズを忘却し、ただの巨大な肉のスポンジへと変質していた。上顎と下顎のあいだの空間をぎゅうぎゅうに押し広げ、収まりきらない。少しでも動かそうとすれば、ひび割れて乾燥した側面の肉が、奥歯のざらついた表面にガリガリとこすれる。痛い、というより、ひどく不快な摩擦だ。
唾液。一滴もない。
舌の裏側にまで、微細な泥の粉が入り込んでいる。
アテネの市場。柱廊の陰。師の老人がしゃがれ声で語っていた、真理。美徳。善なる行動。
空虚。
それらの言葉はすべて、いまクセノフォンの肥大した舌の表面で、白く乾燥した垢となってこびりついている。
人間を人間たらしめる理性。論理。
いま、クセノフォンの喉の奥から漏れるのは、シュー、シューという、破れたふいごの排気音だけだ。言語は死んだ。物理的な乾燥によって、ただ圧殺された。
意味をなす音声など、この熱の壁の前では発生しない。
「……あ」
右隣。
ボイオティア出身の重装歩兵。顔面は土埃で灰色にコーティングされ、目と鼻の穴だけが黒く空洞になっている。
男の唇。
上下の唇が癒着し、その表面に血の固まった黒いカサブタがべったりと張り付いている。
「水だ」
男の喉の奥から、粘着質の音が剥がれ落ちた。
声帯の振動ではない。胃袋の底に溜まった腐臭のする空気を、無理やり食道を通って押し出しただけの、物理現象。
「水」
男の眼球が痙攣している。焦点はどこにも合っていない。ただ空中の陽炎を睨みつけている。
クセノフォンは首を動かさない。眼球だけを右に滑らせる。舌が上顎にへばりついている。それを無理やり剥がす。ベリッ、という音が頭蓋骨の内部だけで響く。
「泥を噛め」
クセノフォン自身の口から出た音も、単なるノイズだった。
肥大した舌が邪魔をして、発音の輪郭が完全に崩壊している。ドリヲカマェ。そんな風に響いた。
「唾液が出る。噛め」
ボイオティアの男は、しばらくそのノイズの意味を内耳で処理しようと立ち止まりかけたが、背後から歩いてきた別の兵士の盾に背中を小突かれ、つんのめった。
そのまま、男の視線は足元のひび割れた大地へと落ちる。
男は立ち止まらず、歩調を合わせたまま、歩きながら腰を曲げた。奇妙な猿の姿勢。地面から剥がれかけていた、親指ほどの土の塊を拾い上げる。
躊躇はなかった。
そのまま土塊を口に放り込む。
ガリ、ガリ、ジャリ。
砂と小石が、男の奥歯のエナメル質を削り落とす凄惨な音が、クセノフォンの耳に届く。
男の顔の筋肉が、苦痛とも歓喜ともつかない形に歪む。泥の粉が喉に張り付き、男は激しく咳き込んだ。黄色い胃液の匂いが、一瞬だけ熱風に混ざって漂う。
クセノフォンの腹の底で、暗く冷たい泥の快楽が蠢いた。
見ろ。こいつは泥を食っている。アテネの法も、神への供物も忘れて、ただの豚のふりをして地面のカスを咀嚼している。
俺は違う。俺は教養ある市民だ。俺は泥を食わない。
その卑屈な優越感が、乾ききった頭蓋の片隅で一瞬だけ閃光を放つ。
だが、次の瞬間、サンダルの底が鋭い石を突き上げ、体勢がわずかに崩れた。その衝撃で、自身の肥大した舌が限界を超えて奥歯の鋭い角に強く押し付けられ、肉が裂けた。
鉄の味。
自身の血だ。
クセノフォンはその血を、一滴たりとも逃さぬように喉の奥へと吸い込んだ。泥を食う豚を見下す男が、自分の舌の肉を噛みちぎって水分を補給している。
滑稽な喜劇。アリストファネスの舞台でも、ここまで悪趣味な冗談はない。
前を向く。
メガラの男の背中。三本の革の繊維。まだ揺れている。
水ぶくれから流れた体液が、ついに顎のラインまで到達し、そこで乾いて不快な引きつれを起こしている。
言語はいらない。
アテネの誇り。市民としての問答。
すべてこのバビロンの赤土の下に埋葬すればいい。
必要なのは、泥を咀嚼し、自身の血を啜ってでも内臓の痙攣を鎮め、ただ次の右足を前に出すという、冷徹な機械的運動だけだ。
太陽が、兜の表面温度をさらに押し上げる。ジリジリと、青銅が熱を蓄えていく音までが聞こえる気がした。




