渡河と、焼き払われた背後
ユーフラテスの水は濁っていた。黄色とも茶色ともつかない色で、流れは緩いのに足を入れると底が掴めない。泥が足首にまとわりつき、引き剥がそうとするたびにぬるりとした抵抗が返ってくる。クセノフォンは一歩踏み出すごとに、足裏の感覚が消えていくのを感じていた。石か、泥か、それとも何もないのか。判断する余裕はなかった。
水はすぐに腰の高さまで来た。革鎧が水を吸い、肩に重さがのしかかる。乾いていたときには頼りに思えたそれが、今はただの重りに変わっている。肩紐が食い込み、呼吸が浅くなる。誰かが後ろで呻いたが、振り返る者はいない。振り返れば足を取られる。それだけは分かっていた。
隣の兵士が滑った。小さな声と水音。次の瞬間には、濁流の中でもがいている。手が空を掴むように動き、すぐに沈む。助けようと手を伸ばしかけた者がいたが、すぐに引っ込めた。自分も引き込まれると理解したのだろう。やがて男は顔を出し、泥水を吐きながら岸へ向かって這い上がった。咳の音が続く。誰も声をかけない。
クセノフォンはただ前を見ていた。対岸の輪郭はぼやけている。近いはずなのに遠い。水面に映る光が揺れて、距離感を狂わせる。足を上げるたびに、何かを失っているような感覚があった。靴底の感触か、体力か、それとも別の何かか。
「見ろよ」
横から声がした。プロクセノスだった。濡れた髪が額に張り付いている。口元だけが妙に軽い調子で動く。
「後ろ」
言われて振り返る。対岸に繋がれていた小舟が燃えていた。黒い煙がゆっくりと立ち上り、風に流される。火は小さいが、確実に形を失わせていく。戻るためのものが、順番に消えていくのが分かる。
「徹底してるな」
プロクセノスが笑ったのか、ただ息を吐いたのかは分からなかった。
「戻るつもりがあるなら、最初から来ない」
クセノフォンはそう言った。自分の声が思ったよりも低く、乾いているのに気づく。言葉に重みはなかった。ただ口から出ただけの音だった。
水を抜けると、足元が急に軽くなった。だが同時に、身体の芯に疲労が残る。岸の砂は柔らかく、踏み込むと沈む。何人かがその場に座り込んだが、すぐに怒鳴り声が飛び、また立たされる。
振り返る者はもういなかった。
焼けた木の匂いが風に乗ってくる。さっきまで確かにあった道が、煙と一緒に消えていく。そこにあったはずのものを思い出そうとするが、像が曖昧で定まらない。街の石畳や、港の湿った空気や、酒場のざわめき。どれも輪郭を失っている。
前を見ると、ただ地面が続いている。起伏も少なく、目印もない。どこまで行けばいいのか、誰も正確には知らない。ただ進めと言われているから進む。それだけだった。
隊列が動き出す。一人が歩けば、後ろも動く。誰かが止まれば詰まり、また怒号が飛ぶ。その繰り返しだ。個々の意思はほとんど意味を持たない。流れの中で足を動かしているだけだ。
「なあ」
またプロクセノスが声をかけてくる。
「どこまで行けば、帰ったことになると思う?」
軽い調子だったが、言葉だけが妙に残った。
クセノフォンは答えなかった。考えても仕方がない問いだと思ったのか、答えを持っていなかったのか、自分でも分からない。ただ、腰の剣の重みを確かめる。そこにあるという事実だけが、まだはっきりしていた。
一歩踏み出す。足跡が残る。だがすぐに崩れ、形が消える。同じことの繰り返しだ。残るものは少ない。残せるものもほとんどない。
それでも列は進む。
誰も立ち止まらない。止まれば置いていかれる。置いていかれれば終わりだと、言葉にしなくても理解している。
クセノフォンは息を吐いた。肺の奥に残っていた湿った空気が、ゆっくり外に出ていく。代わりに乾いた空気が入る。違和感はあるが、すぐに慣れるだろう。
前を見て歩く。
それ以外にやることはなかった。




