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傭兵隊長クセノフォン  作者: 世間の果て
第五章:内陸への一歩(アナバシス)
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夜と干し肉の価格

 赤い火。煙が目に染みる。

 ラクダの糞と乾燥した灌木を燃やした煙が、重い空気の底を這うように野営地を覆っている。クセノフォンは充血した眼球を無骨な指の関節でこすった。ざらざらした手のひらの汚れがダイレクトに粘膜に擦り込まれ、涙腺からドロリとした液が滲み出す。痛い。だがこするのをやめない。

 ギィ…顎の蝶番が鳴る。


 右手に握っているのは、黒ずんだ木の皮のような物体。干し肉だ。いや、肉だったもの。羊か。年老いたロバか。塩漬けにしてペルシャの強烈な太陽で限界まで水分を飛ばした、ただのタンパク質の化石。クセノフォンはそれを奥歯で挟み、首を激しく振って引きちぎろうとする。顎の筋肉が悲鳴を上げる。こめかみの血管がドクドクと痙攣する。


 硬い。

 石だ。

 これを胃袋の酸で溶かして明日の前進のための推力に変換する。労働の対価。一日中荒野を這いずり回った巨大なムカデの部品への、最低限の燃料補給作業。

「今日の歩きは銀貨何枚分だ」

 焚き火の向こうで、無花果のカスを髭につけた男が言った。火の粉が舞って、男の脂ぎった額を不規則に照らす。

「半枚だ。この肉の硬さは差し引いて計算しろ」

 欠けっ歯のアカイア人が、自分の肉片を火に炙りながら吐き捨てる。

「俺の足のマメが潰れた分は割増しだ」

 無花果のカスが笑う。黄色い歯の隙間に、何かの繊維が詰まっている。


 割増し。

 クセノフォンは口内の唾液でふやかした肉の塊を飲み込んだ。食道をごつごつと削りながら、それが胃の底へ向かって落ちていく。重い。鉛の玉を直接飲み込んだようなひどい感触。だが、その重さがたまらなく心地いい。


 空っぽの胃袋が、物理的な質量で満たされていく。それだけでいい。

 精神だの、善き生き方だの、アテネの広場で白ひげの老人がしつこく問いかけてきたあんなものは、腹の足しにもならないただの空気の振動だった。俺たちの魂の重量は、今この瞬間、胃に収まった硬い肉のグラム数と完全にイコールだ。


 肉体のすり減り。

 疲労。

 股間の生傷。

 鎖骨の痛み。

 すべては価格設定された商品の一部に過ぎない。俺たちは自分という在庫の寿命を毎日少しずつ切り売りして、革袋の中の銀貨のチャリッという音を増やしている。今日の苦痛は銀貨半枚。潰れた水ぶくれの汁は銅貨三枚。完璧な計算式。アテネの法廷の判決よりずっと公平で、冷徹な論理。


 金と胃袋。

 入力と出力。

 ただそれだけだ。

 周囲では、すでに燃料補給を終えた部品たちが地面に無造作に転がっている。

 擦り切れたマントにくるまり、お互いの体温を奪い合うように重なり合って眠る男たち。


 泥と汗と排泄物の臭いが混ざり合った、巨大な肉の山。

 そこから響いてくるのは、不規則でけたたましい排気音の合唱だ。

 グゴォ。フシュー。カッ。ゴボォ。

 いびき。痰が絡んだ喉奥から絞り出される、下品で野蛮なノイズ。右の男が息を吸うと、左の男が吐く。時折、誰かが寝言で意味不明な罵声を上げ、またすぐにいびきに戻る。


 うるさい。

 だが、この狂ったノイズこそが、一万の心臓のポンプがまだ動いているという確かな証拠だった。明日の労働力が担保されている音。


 クセノフォンは残りの肉片を丸ごと口に放り込んだ。

 噛まない。無理やり飲み込む。喉の奥の粘膜が裂けそうになる。息が詰まる。目が白黒する。胃の底にドスンと落ちた。

「おい、アテネの」

 欠けっ歯が火の向こうから声をかけてくる。

「なんだ」

「お前の今日の取り分はいくらだ。顔色が悪いぞ。銀貨一枚分ぐらい腹を壊してるんじゃないか」

「俺の胃袋は銀貨三枚分の容量がある。この程度のクズ肉じゃ底の隙間も埋まらない」

「強欲だな。ペルシャの王様かよ」

 欠けっ歯がまた黄色い唾を焚き火に吐き捨てる。ジュッ、という音がして、一瞬だけ火が青く燃え上がった。


 夜風が土埃を運んでくる。寒い。

 太陽が沈んだ途端に、盆地は巨大な氷室へと変わる。日中の狂ったような熱が嘘のように地面から逃げていく。

 クセノフォンは薄い麻のマントを引き寄せ、隣で丸まっているトラキア人の背中に自分の背中を押し付けた。温かい。

 他人の体温。見ず知らずの、言葉もろくに通じない野蛮人の放つ熱気。それが背骨を伝って、冷え切った内臓の裏側を温める。

 目を閉じる。

 まぶたの裏に、今日一日中見続けたトラキア人の背中の染みが浮かぶ。片目の野良犬。

 それが革袋の底で硬貨の鳴る音と重なる。チャリン。

 俺は一ドラクマ。俺の魂の今日の相場。

 明日は上がるか。下がるか。

 足の裏の肉がすり減った分だけ、俺の価値は目減りする。

 だから寝る。

 寝て、肉の目減りを止める。

 顎の異常な疲れが、全身の筋肉へと波及していく。意識の輪郭が、ラクダの糞の煙の臭いと一緒に濁って溶け始める。


 耳元で、誰かのけたたましいいびきが鼓膜を殴りつけた。

 それはアテネのアゴラで聞いたどんな演説よりも、正確で揺るぎない、この世界の真理の音だった。

 暗闇。冷え切った土の感触。

 クセノフォンは泥の中に顔を埋めるようにして、意識の電源を強制的に落とした。

 ただの在庫の番号としての眠り。

 明日の朝、またあの糞みたいな太陽が昇るまで。

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