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傭兵隊長クセノフォン  作者: 世間の果て
第五章:内陸への一歩(アナバシス)
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潮の気配の蒸発

 赤い土。

 乾燥した固い土塊。

 一万三千の足裏が、それを単調に殴りつけていく。ザッ、ザッ、ザッ。揃っていない。だが巨大な一つの塊としての打撃音が、盆地の底を這いずり回る。重装歩兵一万一千。軽装歩兵二千。ただの歩行する肉の壁。サルディスの城壁が後方の砂埃の中に溶け落ちてから、何度太陽が真上を通過したか。誰も数えていない。数える意味がない。昨日も一昨日も、同じ色の土と空の間に挟まれて、ただ足を動かしていた。時間という概念は、支給される麦粥の回数に置き換わった。


 すり減った牛革のサンダルの底から、尖った石の輪郭が直接、足の裏の骨膜を引っ掻く。

 痛覚の信号が脊髄を駆け上がる。脳はとうの昔にその神経回路を強制終了させている。痛いのではない。ただ足の裏に石がある。それだけだ。

 クセノフォンは喉仏を上下させた。粘膜に張り付いた赤茶けた粉塵が、ヤスリのように気管をこする。血と鉄錆の味。唾液は三時間前に枯渇した。

 鼻腔にこびりついているのは、前後左右を歩く男たちの体から立ち昇る、ひどくブショネったワインたような強烈な悪臭だった。数日洗われていない皮膚の上の羊脂。酸化した青銅の青臭さ。股ぐらに染み付いた古い尿のアンモニア。それがペルシャの熱風の中で発酵し、目に見えないもやとなって一万三千の群れをすっぽりと覆い隠している。時折すれ違う現地の農民たちが、遠くからこちらを見て顔をしかめ、逃げていく。悪臭を放つ巨大な多足の虫。ギリシャという文明の残骸が、東へ向かって這いずり回っている。


 クセノフォンは前を歩くトラキア人の背中だけを見ていた。

 革鎧の肩紐が汗で変色し、鎖骨の下に食い込んでいる。その右肩甲骨のすぐ下に、潰れた豆粒ほどの黒いイボがあった。そこから一本だけ、異様に長い縮れ毛が生えている。歩調に合わせて、その毛が揺れる。右。左。右。左。振り子のようだった。クセノフォンの網膜にはもうそれしか映っていない。あの毛を引き抜きたい。素手でむしり取って、アテネの市場のどぶに捨てたい。どぶのヘドロの中に沈んでいくあの縮れ毛を見届けなければ、俺は狂ってしまう。いや、アテネの市場などもうどこにも存在しない。先祖伝来の丸盾を叩き売ったあの日、握りしめたテトラドラクマ銀貨の硬直した冷たさがまだ右手のひらの神経の裏側に張り付いているような気がして、クセノフォンは無意味に拳を握っては開く。掌の汗腺から吹き出した塩分がこすれ合う。ざらり。手のひらには何もない。ただの汚れた肉と骨の組み合わせだ。


「潮の匂いが消えた」

 横を歩いていた欠けっ歯のアカイア人が言った。口の端から黄色い唾液の泡が飛ぶ。それは地面に落ちる前に乾燥した空気の中で瞬時に蒸発し、ただの汚い染みとなって消えた。

「ここはもうギリシャの裏側だ」

 クセノフォンは前を見たまま、乾いた唇をわずかに開いた。

「鼻が詰まっているだけだ。俺には銀貨の匂いしかしない」

「銀貨は匂わない」

「いや、匂う。ペルシャの金庫係の指の垢の匂いだ。あの真鍮の耳飾りをじゃらじゃらさせた豚の油の匂いがな」

 欠けっ歯は鼻を鳴らし、また前を向く。

 海が消えた。

 エーゲ海の湿り気は、一万三千の皮膚から完全に抜け落ちていた。

 アテネの市民にとって、海とは世界そのものを繋ぐ血管だった。港湾都市ピレウスの淀んだ蒸気。船板の腐った木の匂い。タール。だがここは内陸だ。広大な、何の意味もないただの土の広がり。風景が狂気のように変化を止めない。赤から黄へ。黄から白茶けた無へ。

 環境の激変が、精神の形状を強制的に鋳型に流し込んで変形させていく。エーゲ海の潮風が彼らの肌に染み込ませていた、目に見えない塩の膜。ギリシャ人であるという証明書。共同体の構成員であるという見えない刻印。それが、ペルシャの強烈な太陽と容赦のない熱風によって一枚、また一枚と剥がされていく。唇がひび割れ、そこから滲んだ血が黒いかさぶたを作る。そのかさぶたごと、アテネの法も、師の問いかけも、すべてが内陸の乾燥した風に吹き飛ばされていく。

 残るのは、ただの乾いた肉袋だ。


「そういや、キュロス様の山賊退治って設定、あれ誰か信じてんのか」

 欠けっ歯がまた唐突に口を開く。

「信じてるさ。俺の右足がな。一歩進むごとに山賊を親の仇みたいに憎んでる」

「お前の右足、さっきから泥に足取られてるだけだろ」

「だから憎いんだよ」

 無意味な音声信号のやり取り。脳の消費カロリーを抑えるための、空回りする歯車のような機能に過ぎない。前を見ろ。ただ前だけを。見渡す限りの荒野には、オリーブの木の陰ひとつない。直射日光が青銅の兜を熱し、髪の毛が焼けるような匂いがする。


 クセノフォンは昨日支給された固い干し肉の繊維が、まだ右の奥歯の間に挟まっているのを感じていた。舌先で押し出そうとするが取れない。馬の肉か。ロバか。いや、人間の肉だったとしても誰も気づかずに咀嚼して飲み込むだろう。タンパク質。一日に歩行を維持するための燃料。その干し肉の塊と引き換えに、自らを市場の陳列棚に並べた。一日一ドラクマ。

 命の相場としては悪くない。

 ザク。

 また一歩。

 皮膚の表面から、最後に残ったアテネの湿り気が蒸発していくのを感じた。自我の完全な揮発。自分はもう市民ではない。帰る場所を持たない、銀貨で動く暴力の末端機構だ。

前を歩くトラキア人の背中のイボから生えた毛が、また揺れた。

 熱風。

 頭蓋骨の中で、脳髄がゆっくりと煮詰まっていく音がした。

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