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傭兵隊長クセノフォン  作者: 世間の果て
第四章:王子キュロスの甘い罠
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プロクセノスの咀嚼

 くちゃ。くちゃ。

 顎の蝶番が不規則に鳴る。プロクセノスの顔面の下半分が、脂で異様にテカっている。羊肉。骨から剥ぎ取ったばかりの分厚い筋肉の束。それを前歯で強引に引きちぎる。黄色い皮下脂肪が下唇を滑り落ち、油で撫で付けられた顎髭の先端で不潔な雫を作る。

 くちゃ。

 彼の右の犬歯と小臼歯の隙間に、赤黒い肉の繊維が一本、太く挟まっている。喋ろうと唇を動かすたび、その繊維がピンと張り詰め、また弛む。クセノフォンはそれしか見えない。網膜の焦点がその一本の肉の筋に固定される。指を突っ込んで引き抜きたい。いや、放っておけ。どうせ胃袋の底へ落ちるだけのタンパク質だ。


 ごくり。

 プロクセノスの太い喉仏が、皮膚を内側から突き破らんばかりに上下した。生々しい軟骨の摩擦音。巨大な肉の塊が食道という管を無理やり押し広げて降りていく。


「キュロス様は僕らを高く評価している。ギリシャの武勇を示す絶好の機会だ」


 プロクセノスが言う。声帯が脂で分厚くコーティングされている。滑りの悪い、ひどく上ずった音。彼の瞳孔は不自然に開き、野営地の焚き火を反射して熱病患者の光を放っている。


「ただの在庫処分だ」

 クセノフォンは手元の素焼きの杯を傾けた。縁の欠けた部分に、赤黒いワインの染みがこびりついている。指の腹でこする。乾いた血の感触。

「仕入れ値と売値の差額が俺たちの命の価値だ。それ以上でも以下でもない」


「君は皮肉が過ぎる」

 プロクセノスが笑う。歯の隙間の繊維がちぎれた。

「ペルシャの広大な大地。ピシディアの山賊退治。これは高尚な遠征だ。アテネの教養とスパルタの槍が、未開の蛮族に秩序をもたらす。キュロス様はその対価として莫大な黄金を約束してくれた」


 嘘だ。

 一万三千の重装歩兵。山賊退治の規模ではない。明らかな過剰戦力。王座の簒奪。兄殺し。ペルシャ帝国の心臓部へ向かう片道切符。ここにいる誰の胃袋も、その真実を消化できない。プロクセノスの脳髄は現実の重みを完全に拒絶した。真実の直視。内臓が恐怖で裏返る。だからアテネで学んだ教養という名の甘ったるい香油を、現実の腐臭の上に厚塗りする。


 プロクセノスから強烈なバラの匂いが漂ってくる。高価なペルシャの香油。しかし、その甘さの奥底から、数日洗っていない彼の脇の下の酸っぱい汗の臭いと、羊の獣脂の酸化した悪臭が突き刺してくる。混ざり合った吐き気を催す臭気。欺瞞の匂い。


「仕入れ値の話をしたね」

 プロクセノスがまた杯を呷る。喉仏が痙攣する。顎からこぼれたワインの雫が、首筋の土埃を押し流して細い泥の川を作る。

「僕らは安売りされるわけじゃない。特別扱いだ。キュロス様の天幕を見たか。あの分厚い絨毯。黄金の杯。彼が僕らを招き入れたのは、対等な友人としての証だ」


 絨毯の毛足の長さが、命の保証になるのか。

 クセノフォンは自分の足元を見た。踏み固められた土。ブーツの底にこびりついた駱駝の糞。

 天幕での接待。あれは、これから屠殺場へ送る豚に与えられる最後の極上の林檎だ。プロクセノスはその林檎の甘さにむせび泣き、刃物の気配を完全に脳から消去した。自ら目隠しをし、自分は王の庭を散歩する賓客だと思い込む狂気。


「高く売れるなら、それに越したことはない」

 クセノフォンは短い音節だけを吐き出す。

「だが、俺たちはただの数字だ。キュロスにとって、アテネの哲学も教養も、青銅の盾の厚み以上の価値はない。盾が割れれば捨てられる」


 プロクセノスは聞いていない。脂まみれの指で次の肉の塊を掴む。

「明日はもっと進む。ペルシャの奥深くへ。アテネの連中が一生見ることのない景色を、僕らはこの目にするんだ。歴史の証人さ」


 歴史の証人。

 言葉の虚飾が、胃液の酸っぱさを一時的に中和する。プロクセノスは猛烈な勢いで咀嚼を再開した。くちゃくちゃという音が、野営地の焚き火の爆ぜる音をかき消す。彼は恐怖を噛み砕いている。死の予感を、羊肉の繊維と一緒に無理やり胃袋の奥底へ押し込んでいるのだ。


 現実を見る苦痛からの逃避。

 自分が歴史の歯車ですらなく、ただの使い捨ての泥除けに過ぎない事実。プロクセノスはそれを認めるくらいなら、狂信的な楽観主義の泥沼で溺れ死ぬ方を選ぶ。

 クセノフォンは杯の残りを一気に喉に流し込んだ。

 泥臭いワインの澱が舌にへばりつく。鉄の味。

 目の前の男は、すでに死体だ。綺麗に着飾った、無意味な熱を帯びて喋る死体。

 その死体が、また脂まみれの口を開いて何かを語り始める。背後の暗がりで、誰かが黄色い痰を地面に吐き捨てる湿った音がした。クセノフォンは耳の穴を塞ぎたくなった。だが、手は動かない。手首の腱が重力に引きずり下ろされる。冷え切った夜の空気が、汗ばんだ背筋をゆっくりと這い上がってくる。

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