――――あたしは、この日英雄と出会った。
「そ、んな…………」
確かに、狙いどおり標識は奴の脳天に直撃した。そしてそのまま頭をカチ割るはずだった。
そう、はずだった。
「ふむ……それが貴様の奥の手か? 随分と軽く見てくれたものだな」
黒々と鈍い色を放つ化け蜘蛛の甲殻には、傷一つついていなかった。
◆
化け蜘蛛は攻撃を受ける前と何ら変わらぬ体勢で額に標識を受け止めていた。殴りあった時に分かってはいたつもりだったけれど奴の殻は想像以上に――想像以上に、硬かった。
「く、そ……くそオオオオオオオ!」
認めたくなくてやたらめったらと手に持った金属製のパイプを振り回す。先端の「止まれ」の角が何度も奴の甲殻へ激突する。重機がスクラップを叩くような音が響き渡る。それでも手応えを感じられなかったあたしはパイプを持ち替えてコンクリが付着した反対側の先端を鈍器のように叩きつける。
それでも何一つ、奴には通じてるように見えなかった。
「アア、アッ……!」
嫌だ。
認めたくない。
だって、だってこれが効かなかったら打つ手が無いんだ。それじゃ駄目なんだ。
ちくしょう。
矜持が揺らぐ。十年培ってきた自分への信頼が崩れていく。
誰にも負けないと思っていた。
この力で立ちはだかる敵は全部全部倒していけると思っていた。
願いを叶えるために、神様がくれたんだって、そんな幻想を抱いていた。
でも現実はこうだ。
あたしは、こんなにも弱い。
「あああああああああああ!」
「五月蝿い」
ズグッ、と何かがあたしの身体に入る感触がした。今日は骨が折れる音だとか内蔵が潰れる音だとか生理的に嫌悪せざるを得ないものを散々聞かされたけど、今までで一番聞きたくない音だった。
――化け蜘蛛の爪があたしの腹に突き刺さって内側からグリグリ掻き回していた。
「ッグアァッ! がああああアアアアアッ! ちくしょう! ちくしょうちくしょうちくしょうッ!!」
形容し難い激痛にパイプを取りこぼす。両手で奴の爪を掴んで引き抜こうとしたけど動かなくて、何とかなれってがむしゃらに手を握って叩く。当然、びくともしない。
「余計に姦しくなったな。不愉快だ」
野球のピッチャーみたいに百舌の早贄状態のあたしは振りかぶられる。腹に刺さった爪がみちみちと肉を裂きながら宙を動く。一気に加速した爪はあたしをようやく解放する代わりに凄まじい慣性エネルギーをプレゼントした。今日は良く飛ぶ日だ。どうにもできなくなったあたしは全身を強ばらせたままボロ雑巾のように投げ捨てられた。地面を拭うように十数メートルの距離を滑っていく。
「う…………」
もう、限界だ。
血を失いすぎた。
指の一本も動かせない。
「漸く静かになったか。……しかし最期まで不可解な者だった。何を狙っているかと思えば姑息な目くらましとただの鉄。この期に及んで『心珠』を使わぬとはやはりアルヴィアンでは無かったな。だというのに行きずりのあのアルヴィアンのためにここまでするとは常人の思考では無い。……加えてこの身体性能も気になるが、しかしそれも奴らで無いのならどうでも良きことか……」
遠くで奴が何か言っている。ぼやけて聞こえない。なんだか、眠い。とても、眠い。
薄ぼんやりと閉じられつつあるまぶたの向こう側で、奴が私に背を向けた。今だ、チャンスだ、と思っても糸が切れたようにあたしの身体は反応が無い。壊れたマリオネットみたいだ。
だっていうのに……
「命までは奪わん。寝ていろ、小娘。我があのアルヴィアンを始末してくるまでな」
あの子が危ないってだけで、なんでまだ動くんだろう?
「何?」
さっきの標識まで動いていった時よりも遥かに遅い匍匐だった。芋虫とか蟻を通り越してもう粘菌かっていうぐらい。こんな状態で挑んだところで勝てないってことはわかりきってる。傷を負わせることすら不可能だ。
でも、前に進む。
進む。
血の跡を引き摺りながら。
「……なんだ、この苛立ちは? 捨て置いてやると言っているのだ。貴様、気が狂れているのか? あまり度が過ぎれば殺すぞ?」
声に怒気が混じっている。殺意もだ。
今生きているのが不思議なぐらいだけれど、たぶん次は無い。
このまま行けば本当に死ぬ。
なんとなく本能で分かった。
……だけど、止まってやらない。
止まって、やるもんか。
「もういい」
化け蜘蛛の眼が怒りに染まった。
今日あたしの身体を壊し尽くした爪が大上段に構えられる。
ああ、これは死ぬな。
覚悟を決めたあたしは今までお世話になった人たちに心の中で謝った。
母と、れーちゃんと、アルベールさん、マリさん、他にもたくさんの人たちだ。
最後に出会ったばかりのあの子のことを思い出す。
全然話せなかったけど一生懸命あたしが作ったおかゆを美味しそうに口に運んでくれた。その姿が妙に可愛らしくて、得体も知れない子だったのにあたしはついつい嬉しくなってしまった。
「ちゃんと逃げてくれてるといいなぁ、テアちゃん」
「死ね」
あたしにトドメを指すはずのその爪は、
――しかし、振り下ろされなかった。
◆
あたしと化け蜘蛛の間に割り込んだ影を見て、奴が動きを止めた。
影の正体は――
「何、やってるの……逃げ、なさい……」
今まさに無事を祈っていた、テアちゃんだった。
どうやってあの戒めから抜け出てきたのかはわからないけれど、確かに彼女だった。糸まみれになったあのパジャマは間違いなくあたしのもので、あのキツネミミは見間違えようも無い。小さな背中を震わせながらまるであたしをかばうように両腕を広げて奴と対峙している。
「……何のつもりだ? 貴様」
いけない。
あたしに向いていたはずの殺気が、今度はテアちゃんに……。
動け。
動いてよ、あたしの身体。
お願いだから。
「テア、ちゃ……?」
彼女が半分だけ顔を振り向かせて微笑んでいた。ぎこちない、でもどこか悲壮な決意すら漂わせた笑顔だった。
彼女は再び正面を向いて言った。
「お、お願い、します。テアは、テアはどうなってもいいですから、ですから、この人は見逃が、見逃してあげてください」
「………………………………………………え?」
何を言っているんだ、この子は。
それは違う。それはあたしがやらなきゃならないことなんだ。
どうなってもいいのはあたしの方なんだ。
君みたいな幼い子がなんであたしを……。
「この、この、糞アル■ィアンがアア■⊿※∉∀!!」
あたしの戸惑いとは対象的に、戦闘の最中でさえあれほど冷静だった化け蜘蛛はなぜか激昂した。さも、それが許されざることだとでもいうように。彼女の尊い精神を、魂を否定した。
「巫山戯ているのか!? それは我々への侮辱か!? よもやこれほど不愉快なものを見せられるとは思わなかった!! 良かろう!! 望み通り那由他の彼方へ塵と返してくれよう!!」
「やめ、ろ…………」
またなのか?
あたしはまた、助けられて終わるのか?
「おねいさん、一杯一杯ご迷惑おかけしちゃいました。……ご飯、美味しかったのです。ありがとうございました」
最後に彼女はもう一度振り向いて、満足そうに笑った。
満足そうな、笑みだった。
「やめろおおおおおおおおおおおおおおおおおおおーーーーーーーーーーー!!!」
スローモーションで爪が動いていく。
数瞬間後には彼女に突き立てられてその命を奪うだろう。
あたしはそれを止めたくて、止めたくて止めたくて止めたくて必死で腕を伸ばした。
――腕を伸ばして、見ていることしかできなかった。
嗚呼、神様。
お願いです。
あの子を助けてください。
人のために自らを投げ出せるような、優しい子なんです。
こんな風に理不尽に殺されていいわけが無いんです。
何でもします。何でもしますから。
この際悪魔だっていいから。
何だって誰だって、――――――正義の味方だって、いいから。
あの子を、助けてよ。
「――――君たちは、運が良かった」
いつのまにか、黒色が現れていた。
下から上まで服装は全てが黒一色で、カジュアルシューズにジーンズ、ベルト、ブラックジャケットから除くインナーまでもが墨に浸したかのような飾り気の無い闇色。
それらとは対象的に、雪のように白い純白の髪だけが風に揺れている。
ここからじゃ見えないけれど、きっとその眼は青い光を湛えているんだろう。
彼はなんてことの無いように、化け蜘蛛の凶爪を片手で受け止めていた。
その背中を見たあたしは、何故か、本当に何故かはわからないんだけれど、とても安心して……そのまま気を失った。
後になってあたしは思う。
この背中をもっとよく見ておけば良かったと。
――――あたしは、この日英雄と出会った。




