凶を見てせざるは
あたしは動けなかった。
こいつだ。
こいつがマリさんの言っていた『化け蜘蛛』だ。
今日は夜の間ずっと探し回っていた、追い求めていたとすら言ってもいい相手でもある。
実際に遭遇出来たら自分はきっと安堵するものだと思っていた。
ああ、良かった。自分じゃなかった。自分はちゃんと人間だった、って。
けどそんなことはどうでも良くなっていた。
今のあたしは、ただただ目の前のこいつが怖い。
周囲を索敵するかのように動いていた8つの眼球が一斉にこっちを見た。値踏みするかのような、明確な意思を伴った視線だった。
「見られてしまったか……」
冷や汗が頬を伝う。動機が激しい。微動だに出来ないあたしをよそにあまつさえそいつは喋ってみせた。ぎこちないくぐもった響きではあったが確かに人語を介したのだ。理解できない。この状況は何だ? いつから世界はホラー映画になった? あたしはどうしてこんなところに居る?
「…………去れ、小娘。そして忘れるがいい」
しばらく何事か考えてるようにキチキチと牙を動かしていたそいつはそう告げた。踵を返す、というのは踵が無いから正しい表現では無いかもしれないが、歩脚を器用に動かしてあたしに背を向けた。質量があれだけあるのにのそりのそりとしたくぐもった移動音ぐらいしかしないのが不気味だった。
そして奴は、捉えられている獣耳の少女にゆっくりとその牙を向けた。
「ひぅっ」
少女が恐怖に顔を歪めて引きつったような声を上げる。毒牙から逃れようと必死に身体をばたつかせる。
「あ――――」
よせ。やめろ。
声を出すな。
わかっているはずだ。
あれはやばい。
本能が全力で警鐘を鳴らしている。
常人を逸脱しているあたしの身体能力をもってしても生物としてのスペックに差がありすぎるとわかる。
もしここで注意を引いてしまえば、
興味を持たれれば、
敵対されれば、
――――たぶん生き残れない。
あたしは志し半ばで死ぬことになる。
……志し?
あれ?
「………………待って」
ピタリ。
化け蜘蛛が静止した。
背を向けたのと同じ速度でこちらを振り返る。
「消えろと言ったはずだが? なぜまだここに居る?」
歯の音が噛み合わない。口の中から火打ち石を小刻みにぶつけるような音がする。
膝は震えてまるで力が入らずやってしまったという思いのせいで恐慌状態に陥りそうだ。
「その子を、どうするつもり?」
それでも、問いに問いを被せて聞き返した。聞き返してやった。
このまま奴の言うとおりに立ち去ってしまったらあたしはあたしとしての何かを失ってしまうような、そんな気がして。
「……答える義理は無い」
「答えて」
「………………」
8つの眼球が全てこちらを覗いている。牙は相変わらず動かしっぱなしで生理的恐怖を覚える。こちらへの返答を拒否した化け蜘蛛と睨み合いが続く。
「おねいさん! テアのことは放っておいてください! お願いだから逃げてくださいです!」
このままだと問答無用とばかりに暴挙に出られかねない、そんな緊張感が膨れ上がり続ける状況下で最初に動いたのはどちらでも無く獣耳の少女だった。どうにか拘束から抜け出そうともがいていた両手両足をさらに激しくばたつかせて声高く逃避を促してくる。
そっか、テアちゃんて言うのか。可愛い名前してるじゃん。それにやっぱり良い子だなぁ。こっちの心配してる場合じゃないはずなのに。
なんて場違いな思考をしていたら――
「黙れ」
「あ゛うっ」
パキャっと小気味のいい、いや、この場合小気味悪いというべきなのだろうか? とても不快な音がした。
見ると少女の唇から血が零れている。口内でも切ったのか、地面を結構な量が濡らしている。頬も腫れて可愛らしかった顔が見るに耐えないことになっている。
奴は前足で少女を殴ったのだ。
私は理解した。
その行動だけでこの化物が少女をどうするかわかってしまった。
「おい」
本当は、質問をする意味なんて無かった。
この状況だけで充分だったのに。
なのに……ほんの少しだけ、ほんの少しだけ期待していたのだ。
この化け蜘蛛が実はいい奴で少女を迎えにきただけの保護者的存在であると、あってほしいと、ご都合主義すぎるシナリオを。逃げ道として使うにも無理のありすぎる言い訳を。あたしの弱い心は。
「その子を放せ」
奴はあの少女を殺す気だ。
殺さないにしてもろくでもない目に合わせるのは間違いない。
そしてそれだけで玖月歩がこの化物と戦わないといけない理由は充分だ。
さっき声を出せて本当に良かったと思う。か弱い女の子を見捨ててのうのうと家に引き返してスヤスヤご就寝とか、そんなのはあたしが目指してるものとは程遠い。例えどんなに怖くたって引いちゃいけない時がある。ここで逃げたらあたしはこの先一生自分を誇れない。
「断る」
「あっそ。だと思った。それならあんたをぶっ飛ばして助け出すことにするわ」
その時あたしは、なぜだか化け蜘蛛の眼の中に微かな光が揺らぎ初めるのを感じ取ることができた。
「…………くくっ」
ああ、間違いない。
あれは好奇心だ。
「面白い。やれるものならやってみろ、小娘」
もうあとには引けない。
奴の注意は完全にあたしに向いてしまった。
けど、いい。
例え死ぬことになったとしても、それはそれであたしが目指した死に様だ。
心残りがあるとしたら友人に謝れないこと。
忠告を無視して突っ走ってしまった。
「れーちゃんごめん。あたしやっぱり止められても聞くようなタマじゃなかった」
他の誰にも聞こえないぐらいの小さな声で呟いてから啖呵を切る。
恐怖で竦みそうになる身体を叱咤するように、
足に力を込めて、
拳を握って。
「そっちこそ!! 体液ぶちまけてひーこら逃げ帰るハメになっても知らないからな!!」




