募る疑念
風見市は全体的に緩やかな三日月状の孤を描きながら太平洋に面している。
その三日月の中間地点が最も栄えている中心部で、人口数十万の風見市の交通を支える電車、地下鉄、バスの発進地点となっている。風見駅も当然ここにあり、周囲には大小無数のオフィスが立ち並ぶ。
そしてその風見駅からさほど離れていない位置――海に接した南側の部分には大規模な港湾が設けられている。この港は外国・内国問わず貨物を取扱う商港としての側面と、水産物の取扱いを主とする漁港としての役割両方を担っている。海運が発達しているおかげで風見市では海外産の食品や新鮮な魚介が手に入り易い。
港に運びこまれた貨物を一時的に保管する役目で連なっている倉庫。
その一つに背を預け、目を閉じていると風に運ばれてきた海の匂いがより鮮明に感じられる。
普通、漁港は工業的な鉄臭さや海産物の生臭さを感じさせるものだがここにはそれが無い。潮風がさらっているのだろうか、ひどく心穏やかにさせられる。
ふと、目を開いた。
色素が全く失せた白い前髪が目にかかり、少しだけの煩わしさを感じる。
けれどそれも沈みきった夕暮れが水平線の向こうから覗かせる赤い残照の前には瑣末ごとだ。あたりは錆び付いた建築物しか無いうら寂れた場所だというのに、その光だけでその光景は一枚の絵画の様な美しさだった。
「手がかりは有ったかい、シリス?」
靴の鳴る音も衣服が擦れる音もさせず、一人の女性が現れ、跪く。
絹糸を思わせる細さの髪は金。潮風に揺れる毛先は片膝をついた姿勢をして地面に接するか否かという程に長い。衣服は炎を想起させるレッドコート。上着は前を開けられ、黒いインナーによって押し上げられる胸の豊かさが伺えるが、派手な服装とは対象的に目を伏せたその美貌からは怜悧な印象が漂っている。
「いいえ。何一つ……」
「そうか……」
収穫無し。その報にわずかばかりの落胆を禁じえず私は再び目を閉じた。やがて残照もなりを潜め、夜の帳が降りるその様を惜しいと思う様に。
「『鶏』は何と?」
「そちらも同様だよ。手がかりは無かった。ただ代わりと言っては何だけれど、気になる『風の噂』を一つ貰えた」
「どのような?」
「この街には今、『蜘蛛』が居る」
その言葉にシリスが顔を上げる。怜悧な顔には似つかわしくなく、何かを危惧する表情を浮かべていた。
「やはり……」
「大方予想通りというところではあるが面倒なことには変わりないな。まさかアレがこの国に来ていたとは……」
「であれば、昨日私達に手をだしてきたのは」
「ああ、十中八九『蜘蛛』で間違いない。姿は無くともテアが連れ去られる時にうっすらと糸のようなものが見えたんだろう?」
「……申し訳ありません。私がついていながらみすみすあの子を……」
自分の力が及ばなかった時のことを思い出しているのだろうか。シリスは悔しげに顔を歪め、地についている手を震わせていた。
「過ぎたことを悔いてもしょうがないよ、シリス」
「ですが……」
「あの子はきっと生きている。根拠なんて何も無いし敵は甘くないがそんな気がするんだ。そう、信じよう」
「はい……」
楽観は出来ない。だが悲観していても始まらない。
足を止めれば止めただけ不運はやってくる。そうであって欲しいと願うのなら、歩いていくことをやめるべきでは無いのだ。
「今は何をすべきか考えよう。あれらを奪われるわけにはいかないし、テアも取り戻さなきゃならないからね。シリスはまず、離散時の合流地点をもう一度回ってくれ。行き違いになっている可能性もある。――私は『蜘蛛』を探す」
「それは、奴らと再びことを構えるということですか?」
「遅かれ早かれ私達がやろうとしていることを黙って見過ごす連中じゃない。いずれは通らないといけない道だ」
もたれかかっていた壁から体を離し、跪いたままのシリスに背を向けて歩きだす。
「次は明日の10:00にまたここで」
「ご武運を、クロ様」
闇が覆った街へ。
シリスも、一陣の潮風が吹くと現れた時と同様に音も立てず居なくなっていた。
◆
「……もしもし、れーちゃん?」
「あら、歩? 電話なんてどうしたの? この時間帯は見回りに出てるからかけてこないでってあなたが言ってたと思うのだけれど」
時刻は夜。あたしは繁華街の電柱のひとつに寄りかかってポケットに右手を突っ込みながら携帯でれーちゃんに電話をかけていた。いつもどおりであればとっくに路地裏をぐるぐる回っているところなのだけれども、どうしても先に調べておきたいことがあったからだ。
「うん、急ぎで頼みたい事があって。……てかもしかして今不機嫌?」
「……ええ。今日大きな商談があったのだけれど、見事に直前でキャンセルされてね。腹立たしいことこの上無いのだわ」
「うわ……ご愁傷様」
声の調子からどことなく棘を読み取ったので聞いてみたらやっぱりだった。
誤解されないために説明しておくが、先の言葉はれーちゃんに向けたわけではない。ドタキャンやらかした相手側の冥福を祈ったのだ。日本を裏で支配していると言っても過言では無い霧沢財閥相手にケンカを売ったのも同然の所業を、しかもれーちゃんがわざわざ出張るレベルの取引でやらかす輩が居るとは。この先この国では肩身の狭い思いをするに違いない。南無。
「それで、頼みというのは何?」
「えっと、事実確認をお願いしたいんだよ。――昼に話してた暴行犯。あれが化物を見たって話」
バイト先を出てからずっと気になっていたことがある。
あたしが昨日ぶっとばしたあいつらの内の3人――狐目、茶髪、大男が死んでいるということは確定として、じゃあ筋肉ダルマがマリさんの話してた化け蜘蛛を見たって言ってる犯罪者と同一人物なのかどうか、ということだ。
れーちゃんが今朝方受け取った報告では拘留されてる犯人、すなわち筋肉ダルマは『化物』に襲われたと供述しているだけで『化け蜘蛛』を見たとは言っていない。先ほどのマリさんの話だけではまだ筋肉ダルマが『化け蜘蛛』を見たと決まったわけではないのだ。
「ああ、あれね。それの何を確認してほしいの?」
「化物って、具体的にどんなのを見たのか調べて欲しい」
「ちょっと待ってなさい」
電話の向こう側でボソボソと何やら話す声がする。れーちゃんが指示を飛ばしているようだ。
「詳細なテキストを持ってきてもらうように命令したから2・3分で来ると思うわ。その間雑談でもしていましょう。私の心は今荒れに荒れているの。癒しになりなさい」
「癒しって……」
「なるわよ? 歩は私の精神安定剤だもの。アニマルやアロマなんて目じゃないくらいのテラピーやらセラピー効果があるわ。言わばアユミセラピー。毎日ぬるぬるのぐっちょぐっちょにできたらと考えるだけでもう、もうっ! ああっ!!」
「興奮してるよ! 癒しじゃないよそれ絶対! 手を出しちゃいけない系の薬物的な何かだよ!」
なんて普段通りのれーちゃんのやり取りが、地味に今はありがたい。
そんな風に駄弁ってると「来たわ」とれーちゃんが一言。紙をパラパラとめくる音がする。
「結論から言ってしまうと、黒い靄と大きな蜘蛛を見たとあるわね」
「そっか……」
これで筋肉ダルマがマリさんの言ってた拘留中の暴行未遂犯と同一人物であることが確定してしまった。
「詳しい話だと女性への暴行中に黒い靄が現れ、自分ほか3名に危害を加えられ昏倒させられた後、起きたら目の前に身の丈程もあるような大きさの蜘蛛が居て言葉を発したそうよ。驚いた仲間達が何事か叫ぶとそいつは鋭く尖った足先で仲間を突き刺しながらそのままどこへともなく居なくなった、と。巷では暴行中にいきなり蜘蛛が現れたなんて話にもなっていて情報が錯綜してるみたいなのだわ。何なのかしらねこれ。黒い靄というのは歩が記憶を消去したのだとしてそのあとの喋る蜘蛛というのは。薬でもキメて幻覚見てたのかしら」
「………………」
あたしは押し黙る。
黒い靄というのは間違いなくあたしが記憶を消去した後に生まれる記憶の間隙だ。マリさんの話だと靄のことは一切出ていなかったから拘留中の暴行犯が筋肉ダルマと別人だったのでは無いかとの疑念もあったが、これで全てが氷解した。
『化け蜘蛛』が本当に居るのかどうかはわからないが、どちらにせよあの後あたしが居なくなったところで虐殺が行われていたということになる。
あたしはみすみすそれを見逃してしまったのだ。
あんな悪党共知ったことじゃないが人死にだけは別だ。死んだら更生だってできやしない。罪を償って良い人生にする機会すら永遠に失ってしまう。あたしは愚かにも『顔を広めたくない』だなんて理由だけで気絶してる人間を5人も放置したまま居なくなった。その内3人の命が失われたのはあたしのせいだ。
「歩?」
「なんでも無いよ、れーちゃん。大丈夫」
「そう…………こんなこと聞いてどうするつもりなの?」
「なんでも無いってば。変わらないよ。いつも通り街をぐるぐる歩いて見回りする」
そうだ、やることは変わらない。
人間だろうが化物だろうが。
あたしの街でふざけた真似をしてくれた奴を見つけ出してぶちのめす。
「歩」
「なに、れーちゃん?」
「あなたのことだからきっとこの3人を殺した犯人を捕まえようとしてるのだと思うわ。捕まった暴行犯の証言は支離滅裂で信憑性に欠けるけれど仲間を殺したのはおよそ単独犯であるように見える。そしてあなたはその辺の一般人が一人向かって来た程度ではどうにも出来ないことを私は充分理解している。理解した上で言わせて貰うわ。気をつけなさい。相対する敵が自分より弱いだなんて決して思わないこと。自分の予想を上回ることが起こりうること。それらを常に念頭に置いて戦いなさい」
「………………」
「仮に……仮によ? 本当に人ぐらい巨大な蜘蛛が現れたのだとしたら、脇目も振らずに逃げ出しなさい。昼間はUMAなんて居ないと言ったけれど不可思議な事象なんてこの世界にはいくらでもあるわ。それこそ人間が解明できていないことなんて山ほど。だからもしも自分の常識に当てはまらないことが起きたのならまずは死なないことを考えて。いい、歩?」
「…………心配してくれてるの?」
「当たり前じゃない。友達だもの」
「それなら最初っから止めてくれても良くない?」
「止めたって聞くタマじゃないでしょう?」
「それもそっか」
……ああ、嬉しいなぁちきしょう。
これだからあたしの友達は。
「れーちゃん」
「ん?」
「…………んにゃ、なんでもない。……ありがと」
「…………今度屋敷に遊びに来なさいな。良いトリュフが入ったのよ。どうせなら歩と一緒に食べたいわ」
「うん」
「約束したわよ。……それじゃ、気をつけていってらっしゃい」
「うん、それじゃ……」
通話が切れる。プツッ、ツーツーという電子音。
「れーちゃん……」
携帯の画面を見ながら親友の名を呟く。
夏も終わりに差し掛かった夜空は若干の冷気を伴いつつあった。北風が首筋を撫ぜるとそれだけでブルリと体が震え、繋がりを絶たれたことを助長するかのように寂謬感が押し寄せる。
いいや、それだけじゃない。
正直に言おう。
あたしは今、激しい自己嫌悪に陥っている。
何故ならあれほど私の身を案じてくれた友達に対して、結局最後の最期まで打ち明けられなかったことがあるからだ。
マリさんの話を聞いた時。
あたしはひとつの事実を黙っていた。
最初の2件。今回3人の死体が見つかったのとは別の、犯罪者かつ被害者であるところの銀行強盗達と麻薬の売人。
こいつらのことを、あたしは知っていた。
それも、捕まる前から、だ。
順を追って説明しよう。銀行強盗の件は話が大きかったこともあってすぐニュースになった。
これは許せんと思ったあたしは解決に乗り出したわけだが、当然勢いだけで犯人グループが見つかるわけもなかった。
良く戦争で重要なのは一に情報収集能力、二に機動力、三に戦力というがその通りだと思う。情報が集まらなければ戦うべき相手が分からず、移動速度に秀でてなければ相手の居る場所にたどり着けない。
あたしは荒事には自信があるけれど他はてんで駄目で、情報収集なんてもっての他だった。どうやったら目標に到達できるのかノウハウがさっぱりわからない。目をつけた奴の話を聞いても自力じゃたどり着けないなんてことはザラだった。
そうゆう時に頼るのがれーちゃんだ。
権力は恐ろしい。日本警察は優秀で1日も経てば粗方黒そうな人物がピックアップされていたわけだが、れーちゃんはその一覧をあろうことか横流ししてもらった――否、警視庁のお偉方に横流しさせたのだ。
自分で頼んでおいてなんだがあれは流石に引いた。ドン引きだった。日本の構造どうなってるのかと普通に疑った。
かくしてあたしの手に容疑者一覧が手に入り、意気揚々と一人目の張り込みを開始したわけだがどうやら白っぽかった。勘だけで判断しても良いものか悩んだけど、あたしの勘は良く当たるのでよしとして二人目を開始。そしてこれも白に見えたところで二徹の疲れが出たのか休憩をとることにした。そして――目が覚めたら犯人グループが捕まっていたのだ。
麻薬販売ルートの管理人を突き止めるのは簡単だった。
学校の子が1人夜中に繁華街で遊んでいたらタチの悪い売人に捕まって右往左往していたところを解決しようとしたのがとっかかりだ。
まずその売人を薬が買いたいと言って誘き出しとっ捕まえてシメた。元から断った方が良いと考えたあたしは販売ルート管理者とやらの名前を吐くまで一晩中、丁寧に丁寧に――それはもう丁寧にシメた。
あたしの誠意が伝わって教えてもらえたところで記憶を消し(当然学校の子のことも忘れさせた)、これで一安心残るは後日の仕事と寝たら、また起きたところで逮捕の報道が流れていたのだ。
ここまで来ればもう分かってもらえただろうか。
今回の狐目、茶髪、大男が死んだ事件と先の2件には共通事項がある。
3件とも警察に逮捕される前に……あたしが容疑者もしくは現行犯に辿りついているのだ。
だから何だと普通なら鼻で笑うような偶然だがあたしは一つの疑念を払拭できずにいるためにそれらの事実が重くのしかかってきている。つまり――
あたしが『化け蜘蛛』なんじゃないか、ということだ。
「………………」
常識的に考えろよ。
そんなわけないじゃん?
突然変異で巨大化ってだけでもありえないのに人が変身? スパイダーマンかっての。
テレビアニメの見過ぎだよ。
………………でも。
でも……もし、そうなら……。
あたしの身体能力の異常な高さには説明がつく。
昆虫が人間大になったら?なんてのは良く聞く話でそんなのが現実に有り得たらどんなアスリートが相手だろうがぶっちぎりだろう。更に言うなら戦闘能力という点のみで考えれば人間なんてもともと生物としては遥か格下だ。余裕で圧倒できる。
そしてあたしがこのクソみたいな疑念を消し去れない最大の理由がこの『記憶を消す』能力。
――他者の記憶を参照し意識の無い状態であれば取捨選択し自由に消去できる。
小さい頃から使えたから一時期まではそうゆうものとして自身を納得していたけれどとんでもない。
こんな力は異常だ。
本来人間が備えていない能力なのだ。
そしてそれを平然と保有し行使するあたしはおかしい。
おまけに、だ。
この力はあたしに更なる可能性を示唆している。
実は、消せるだけじゃないんじゃないか?
試したことが無いから分からないだけで記憶を置き換えることもできるんじゃないか?
だとすれば……何かのきっかけで目覚めた『化け蜘蛛の玖月歩』は好き勝手に活動したあと、『人間としての玖月歩』の生活に支障をきたさないよう自分の記憶を改竄してるんじゃないのか?
例えば、犯人が捕まっている間、自分はただ寝ていたなんて、キヲクを、、、
「くっそ……」
荒唐無稽もいいところの仮説だけれどこれが通るのなら全てに説明がつく、ついてしまう。
そしてこの仮説を跳ねのける根拠も自信も――悪党とはいえ人の記憶を弄んできたあたしには――無い。
「なんなんだよあたしは。友達に相談もできないなんて……」
怖かった。
自分の正体に不信を抱いていることを話し、調査が進んで、もしも本当に人殺しの化物だった時に友人がどういう反応を示すかを、考えたくなかった。
ふざけた真似をしてくれた奴をぶちのめす、だって?
自分がそうだった時はいったいどうするんだよ……。
ふらふらと覚束無い足取りで歩き出す。
もはやあたしが人間であることをあたし自身に証明するためには、『化け蜘蛛』を見つけだすしかなかった。
「ハッ、何がやることは変わらない、いつもどおり街を見回る、だ……こんなに必死じゃん、あたし……」
◆
いつもとは違うルートをランダムに歩き回ったつもりだったのにいつのまにか昨日の暴行現場へとたどり着いていた。
立ち入り禁止だとか書かれてる黄色いテープが張り巡らされていて奥までは行けない。
犯人は現場に戻ってくるって言うからどこかにそれらしき姿が見えないかなとあたりを観察するけれど、影も形も見えない。
ひとしきり矯めつ眇めつ状況を確認するけれど手がかりひとつ無かった。
ここじゃないと思って踵を返したら
パリン、と音が鳴った。
地面に散乱したガラス片が砕ける音だ。まさかと思って振り返る。
が、何も居なかった。
「……なんだ、気のせいか……」
気の抜けたセリフに自分が期待していたことを知る。おかしな話だ。好奇心見たさでというなら別だが普通なら誰もが忌避して会いたくない存在だろうに、あたしは『化け蜘蛛』と遭遇することを望んでいる。
「他の場所をさが」
再び踵を返そうとしたら、視界の隅に小さなものが映り込んだ。
小動物のような何かが倒れ込んでいる。
全身から血を流し、息も絶え絶えに荒い呼吸を繰り返している。
昨日見た、キツネリスだった。
なんてこった。
つらつらと書いてたらいつの間にかれーちゃんが勝手にいいキャラし始めた。
なんという歩愛。




