霧沢麗華の役割
蠢いている。
あの数瞬で現れたのだろう、数千匹に至る大小様々な蜘蛛。
這いまわってはいない。その全てが虎視眈々とこちらを狙うように僅かな身じろぎのみで天井から睥睨している。
当然のことながら私こと霧沢麗華が仮の住まいとして使っているこの屋敷で、司会を埋め尽くすほどの節足動物の類の存在を許した覚えは無い。
あまりの異常事態に一切の身動きができず、ただその怖気が立つような光景を見上げていることしか出来なかった。
そして奴らは、
一斉に、落下を始めた。
「嘘でしょ!?」
「ハァァッツ!!」
歩が叫ぶのとシリスとやらが裂帛の気合を放つのは同時。彼女が赤熱する剣をなぎ払う。
不可視の、しかし物理的エネルギーを伴った熱波……いや、衝撃波が蜘蛛の群れに叩きつけられ黒い緞帳を吹き飛ばす。
散った蜘蛛の死骸は例によって砂漠の陽に照らされたように干からびた。
しかし敵は虫だ。室内の床面に着地した蜘蛛達はその死に様を恐れることなく高速で私たちの方へ突っ込んでくる。天井で緩慢な動きだったのが嘘のようだ。
「気持ち悪いわね」
「下がりなさい」
レッドコートが翻る。金髪紅眼の剣士が床に剣を突き刺すと周囲数メートルの円状に陽炎が揺らめき、津波の如く解き放たれた。放射状に広がった波動は蜘蛛達を飲み込み一瞬で干上がらせる。
「助かったけれど……部屋一面死骸だらけね。もう使えないわ」
仮にこの後これらの骸が全て撤去されたとしてもこの部屋は封鎖。
いえ、屋敷ごと改築かしら?
「不服を零すのなら自ら行動することを推奨します。不平不満をのたまうだけで自分の命すら守れない愚鈍は害虫にも劣りますから」
「へえ……言うわね」
思えば目の前のこいつは私の歩にも剣呑な振る舞いをしていたように思える。
その舌をシリスに切り取らせて二度と舐めたことを吐けないようにしてやろうかしら?
「まあ奇襲を迎撃したのは事実、無礼は赦しましょう。それでこいつらは?」
「間違いなくガルガントスに使役されているね」
「ガルガントスというのは?」
「エデフだよ。私達と敵対している、ね」
「………………」
なるほどね……。
彼らと協力するのならばそのリスクを負わねばならないと思ってはいたけれど、まさか関係が締結する前に潰しにかかってくるとは。尚早ともとれる拙速ぶりだわ。
タイミングからしてこれは威力脅迫。向こう側はよっぽど私とアルヴィアンに手を結んで欲しくないわけだ。「死にたくなければ拒絶しろ」と、つまりはそういうこと。
「さて、どうしたものかしら? 何か良い案はある?」
「屋内では平面だけでなく立体で攻められる。私達はともかくあなた達が危険だからまずは外に出よう。交渉の件も含めて今後どうするかはそれからだ」
「ま、待ってよクロ! この屋敷にはまだ他に人が居るんだよ。その人達はどうするの!?」
「歩……」
焦りも露わに訴える歩。
必死な姿もかわいいからいつもならずっと見ていたいのだけれど今はまずい。
これ以上刺激して良い癖が出てきては非常に厄介だからだ。
宥めるべく声をかけようとしたのだけれど、
「残念ですが諦めなさい。私達にそんな余裕はありません」というシリスとやらの声が私の懸念を台無しにした。
「状況を見てわかりませんか? この国の国政を担う者と我々アルヴィアンの代表。その二人を危険に晒す真似までして一市民を助けることに利点がありません。二人が亡くなればこの国とアルヴィスの両方が傾き何千何万もの人が死ぬことを理解しなさい……尤も、そちらはともかくクロ様が傷を負うことなど毛ほどの可能性もありませんが」
「ッ!!」
シリスの回答に歩は犬歯が砕けるのではと思うほど歯を食いしばる。
悔しさが握りしめた手の平から血となって零れ落ちそうなぐらい震えていた。
「なにそれ……まだ間に合うかもしれないのに、助けられる力があるのに、勝手に諦めるな!」
「歩、待ちなさい!」
「おねいさん!?」
歩は背を向けて扉の向こうへ走り去っていってしまった。紙一重で伸ばした手も届かなかった。
「しまったわね、あの子ならこうすることぐらい分かっていたのに……」
「なんなのですか彼女は……愚か愚かとは思っていましたがあれほどとは、もはや付き合いきれませんね」
「シリスおねえさま! そんな言い方は……!」
狐耳の愛らしい少女がいじましくもシリスに諫言を呈しているが、歩の行動はあの子を良く知らない者にとっては理解不能でしょうとも。呆れる程度ならまだ良い方で大概は畏怖し避ける。人は自分の規範に照合できないものを排斥しようとするのが普通だからだ。
しかしなるほど、歩が可愛がるだけあってこの子は良い子のようだ。歩の煌きをわかっている。容姿も愛玩動物のようで非常に保護欲を掻き立てられるし、稀に見る逸材だわ。
「歩も私の高尚な趣味を理解してくれたのかしら? だとしたら嬉しいわね」
私はゆったりと彼女を見聞していたが、仲間のテアを相手にしている時間も惜しいと言わんばかりにシリスは壁まで近寄り紅剣を二閃三閃。瞬く間にバターのように切り裂かれ人が通り抜けられるほどの風穴が開いた。
「クロ様、この先は私が焦熱結界を張りながら進みます。お急ぎを」
「待ちなさい」
甲高くハイヒールを鳴らして制止の言葉を投げる。
「まさかこれだけ私の屋敷に厄介事を持ち込んでおいてそのまま撤退だなんて、随分と無責任じゃないかしら?」
「ふむ……」
声をかけられたクロは思案げに顎に手を添えた。歩が消え去った扉の向こうをちらりと覗き、次に私の目を見てくる。透き通るような蒼い瞳だった。
「このままこの場を去るのはお気に召さないみたいだね。私達に何をして欲しい?」
「屋敷を襲っているガルガントスとやらを倒して私達の身の安全を保障しなさい。そうすれば再び交渉のテーブルについてあげましょう」
「貴様ッ、図々しくも……!」
「黙りなさい駄犬。私はあなたのご主人様とお話をしているの。キャンキャン吠えるだけで静かにすることも出来ないならその辺の飼い犬にも劣るわ」
「ッ!」
「さっきも言わせて貰ったけれどこの事態はあなた達が引き起こしたものよ? あなた達と交渉の場を設けただけでこの有様。本格的に手を結べばどうなるかは目に見えてるわ。だから、あなた達の手で敵を打ち払い、私達が安心して協力できる状況を作りなさいとわざわざ提案してあげているの。わかる? クロ様?」
あからさまなクロへの挑発にシリスの静かな怒気が部屋を満たす。クム産のペルシャ絨毯がピリピリと静電気を帯電したように逆立っている。まるで蒼い炎だ。
彼女は目を見開いて剣の柄に手をかけ、今にもこちらを切り払わんばかりだ。シリスのその様を見て無言でセラスが前に出た。今にも血の雨が振りはじめてもおかしくない場の空気に堪らずテアという少女が間に入ってきた。
「シリスおねえさま、それは駄目なのです! やめてください!」
「どきなさいテア。目の前の無礼者の素っ首を叩き落として身の程を思い知らせてやらなければ気がすみません。この人間風情が……」
「シリスやめるんだ。彼女は自分の命すら交渉のカードにしている。どうするのかは知らないが少なくとも今この屋敷の中で彼女が命を落とした場合、今後著しく私達の動きは制限されるはずだ」
「あら、本当に食えないわねあなた。この後話そうと思っていたのにそこもお見通しだなんて」
私が死んだらこの国の表裏問わず「アルヴィアンとは関わるな」と通達されて二度と活動できなくしてやろうと思っていたのだけれど。当然、世界各国にも秘密裏に連絡されて人間世界への交渉はひどくやりにくくなるでしょうね。
「ああ、それと逃げるのなら逃げるでも構わないわ。追撃も無いし貴方がたと手を切ったと知れば向こうは喜んで私を味方に引き入れようとするでしょうね。といっても予想が的外れなら私は結局殺されてアルヴィアンはこの世界で非常に肩身の狭い思いをするのだけれど?」
「この女狐っ!」
そんなに熱い視線で見つめないで欲しいわね。
ベッドの上で可愛がってあげたくなるわ。
「あまり褒めないで欲しいわ。照れるじゃない。
どの道あなた達が採れる選択肢は3つ。
1.エデフと結ばれる危険性を排除するため私を殺してこの場を離脱し、今後の活動を著しく制限される。
2.脱兎のごとくこの場を離脱し、問答無用で交渉を決裂される。
3.敵を倒して私達の身の安全を確保し、アルヴィアンの優位性を証明する。
――さて、賢明なあなたはどれを選ぶのかしら?」
ふぅとクロは天井を仰ぎ見ながらため息を一つつき「わかった、要求を呑もう」と答えを口にした。
「クロ様っ!?」
「彼女の言葉は道理に叶っているよシリス。『私達に協力すれば無限の水資源が手に入りますが死にます、それでもいいなら手を結びませんか?』だなんて交渉として成立していない。そもそもが命を狙われるというだけで論外だ。本心から彼女の協力を望むなら我々は最低限、容易に刺客を撃退し危険を排除できるだけの実力を示さねばならない。それはこの場を放棄して先々彼女以外を相手に選んだとしても同じだよ」
「……分かりました。クロ様がそうおっしゃるなら」
しぶしぶと剣を収めるシリスは、口ではそういうもののまだ納得がいっていない風だった。殺気の篭った目で見てきている。まったく、言うことを聴かない狂犬だわ。強気な娘を組み伏せて泣かせるのも好きなのだけれど、今は時と場所が悪いわね。
「どのみち協力して貰えるならこの問題には対処しなければならないと思ってはいたんだよ」
「あら? その割りにはあっさりと襲撃を許したみたいだけれど?」
「彼らの索敵は万能じゃない。想定した最速から更に安全率を設けて交渉が成立してから攻性の結界構築と脱出手段・個人用の最低限の防御を提供できるまでは仕掛けてくることは無いと踏んでいたんだ。しかし……見誤ったみたいだね。本当に予想外だ」
「それならその攻性の結界とやらを今すぐ敷けばいいのではないでしょうか? 字面を見るに内部に入り込んだ敵対者を排除する効果がありそうですが?」
私のデキたメイドが進言するがシリスが苦い顔をしてその案を否定した。
「布陣に時間がかかりますし何よりガルガントスともなれば時間稼ぎ程度にしかなりえません。奴の存在強度の位階はそれほどのはずです。といっても……」
「ああ、ガルガントスはここには居ない」
シリスの言葉を引き取ってクロが断言する。
「私が彼を手酷く負傷させたからね。アルヴィアンに対する激情に傾けば分からないが理性的なら自身が赴いてくるということはまず無い。通常こういった現存生物を支配下に置くには意志力によるコントロールを働かせられるよう自身が周囲に居なければならないが、今回は特別な個体を送り込んでいるはずだ。まずはそれを潰して屋敷を襲っている蜘蛛の制御を外す」
「ガルガントスとやらはどうするのかしら? そもそもその特別な個体とやらをどう探しだすつもり?」
彼は足元に転がっていたガラス玉サイズ程の蜘蛛を摘み、
「君達には視認できないだろうけれど、私達には目を凝らせば意志力の細い糸がこの場の蜘蛛に繋がっているのが見える」
腹部から伸びてるであろう糸をなぞるように、視線を外へと投げた。
「これを手繰れば特別な個体へ、更にそこからガルガントスへ辿り着くこともできるだろう。そうしたらあとは捕縛するなり排除するなり、だ。仮に特別な個体が居なかったとしても糸を辿ればいずれはガルガントスを補足できる以上結果は変わらない」
「そう。ならその案で行きましょう。ただし、中継個体とやらを潰すまでの間に私の大事な大事な友人が害されては堪らないから私は様子を見に行くわ。当然護衛をつけてくれるのでしょうね?」
「…………は?」
「………………え?」
「……………………ふぅ」
シリスとテアちゃんが何を言ってるのかわからないといった表情、次いでセラスがやれやれと呆れを多分に含んだため息をつく。泰然として超俗的な笑みを絶やさないのはクロぐらいのものだった。
「あ、貴女、どこまで……」
シリスは流石に私のふてぶてしさが理解の範疇を超えたらしく青筋を立てながら頬をヒクつかせている。
まだ精神的に未熟ね。私の吹っかけは終わっていないのに。
「だってセラスがいかに有能なメイドで護衛を兼ねているといっても敵は現代科学の範疇を超えているのよ? どこまで常識が通常するかわかったものじゃないのだから当たり前でしょう?」
「いえ、そうではなく……」
「それとも何かしら? あなた達は敵に取り囲まれた状況では私を守れないと言うの? 違うでしょう。敵が四方八方全方位に居ても私を守り切るのがあなた達の仕事でしょう? それが出来ないならやはり手を組んだところで私の命は常に危険に晒されているのと同じだわ。というか、私の友人を殺された時点で私の人生的に大損害だわ。その時点で交渉により被った不利益の発生。だから、付いて来るだけの木偶になられても困るし私だけじゃなくて歩もしっかり助けなさい。いいわね?」
凛として立つ桜のごとく。
一切合切の躊躇も遠慮も無く要求を突きつける。
向こう側にはさも支離滅裂な無理難題を押し通そうとしているように見えているでしょうけれど、そんなことは知ったことではない。
「しょうがないな……二手に別れよう。アユミと屋敷の使用人を保護する組と、中継個体を排除する組だ。シリス、君は霧沢殿達と一緒に行ってくれ」
困ったような苦笑を浮かべつつクロが判断を下す。
予想していたよりもスムーズに通ったが、礼によって主の決定に不服の従者が一人。
「な、なぜ私が! 私はクロ様の従者です! 離れるなど!」
「もしもガルガントスと遭遇した場合にまともに彼と矛を交えられるのがシリスだけだからだよ。これは命令だ。いいね?」
「…………ハッ、承知いたしました」
シリスは納得せずとも承服したようで歯を噛み締めながらも片膝をついてクロに臣下の礼をとった。
立ち上がった時には既に迷いが無いように見えていたのだから切り替えの早さは流石という他無かったが、対照的にテアちゃんは未だにどうするべきか外へと続く壁の穴と扉の奥とで視線を彷徨わせ逡巡していた。
テアちゃんがそうなることも予め予期していたのか、クロはテアちゃんと目線を同じ程度まで下げると彼女の頭に手を載せて言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
「テア、自分に正直になっていい。アユミが心配なんだろう?」
「でもそれじゃあクロ様が……」
「問題ないさ」
「私は一人でも大丈夫だ」
立ち上がって言ったその一言には何者をも信頼させてしまうような、そんな大きさがあった。
線も細く、時には争い事とは無縁にも思えるほど超俗的な面をしているくせに。
白い髪の、黒衣の男は壁の穴まで近づき縁に足を掛けると音も無く飛び立つ。
この部屋が3階だという状況にはまるで構っていなかったけれど、それも彼にとっては問題にならないのでしょうね。
「さて、私達も行きましょうか」
「麗華様。先ほどの件は私といえど呆れ果てました。どこの世界に『危険に身を晒すけど守りきれ』などとのたまう要人が居りますか」
「あらそうかしら? ここに居るわよ?」
皆誤解している。この程度は吹っかけてしかるべきで、向こう側から頼み込んで来た上に来訪しただけで家屋損壊などという大迷惑を被らせているのだ。むしろ足りないとさえ言える。
呑めないというなら切るまでの話で、新資源が得られなくても別に私が死んでも緩やかに国力は落とすだろうがこの国が滅びるほどのことでも無い。それを理解しているからこそあの男はこちらの要求に否やを唱えることなく受け入れたのだ。
シリスは既に扉へ向かって歩き始めている。
一度振り返ってこちらを伺った時に金髪の隙間から覗いた目が実に剣呑な光を帯びていた。嫌われたものだわ。
テアちゃんも何かを決意したような瞳だった。
足取りは力強く、彼女の武器だろう小振りのナイフを握りしめている。
セラスはいつもどおり、私の斜め後ろを両手を前に組んで付いてくる。
完全なデキたメイドの姿勢だ。
「少し時間を取られてしまったけれど、歩の様子を見に行きましょう」
世話を焼かせてくれるけれども、そこも苦では無いと思える。
あのお転婆がやらかしたことの後始末をつけるのは、今まで散々やってきた私の役割なのだから。




