インディゴライトトルマリン
夜、真夜中、本当に誰もが寝静まっている夜。遠くの黒い森の端がごく僅かに照らされて、月までようよう休み始めた夜。その時間に目を覚ますと、たった一人この世界に存在しているような気がした。夜の獣すら寝静まって、知恵のある賢者すら寝静まった世界には何もないような感覚があった。そういった晩は子供ながらに、自分だけがたった一人この世を生きている本当の大人だと思っていた。昼間に見る大人たちはみんなハリボテで、自分だけが世界でたった一人の大人になれたようか気がした。眠気にのしかかられた頭を夜の帷子の裾に撫でられて、まだひどくまどろみながらも、そのままで居るほど素直ではなかった。だからベッドから降りて、カーテンを開けて、夜の暗闇を浴びながら伸びをした。寒いほど澄んだ空気が何よりも心地よい。
『おはようございます。良い夜ですね』
声の方を向いた。厚い壁の遠くから、僕に向かって誰かが話しかけた。トルマリン、夜のトルマリンだ。夜の暗闇に僕よりも前からいるひと、僕の先生。夜の羅紗のように涼やかで、天鵞絨のように重たい輝きの声。大人の僕よりも大人で、夜の闇よりも星を従えた夜の石。ほかの大人に夜起きていることがバレてはいけないから、パジャマのままそっと部屋を出た。足音がしないよう、素足で廊下の絨毯を踏んだ。素足で得る感覚の全てが、冒険気分の僕を愉快にさせた。おはようございます、先生。先生のところ、行ってもいいですか?
『もう向かっているのでしょう』
はい。先生はなんでもお見通しですね。扉の前を通るたびに抜き足差し足、中で眠っている人を起こさないよう注意する。時折わざわざ部屋の中を覗いて、住人が世界の一部から切り離されていないことを確認した。絨毯と夜の空気が僕の音も息遣いも吸って、どこかで鳴る大時計の鐘の音も吸い取って何も聞こえない。何の音もない、僕だけしかいない世界のように思えた。僕だけが、この屋敷で生きづいていて、そしてそれは物語の中にいるかのように夢心地だった。先生の存在がなお一層、僕の中にある自分が特別だと言う感覚を育んでいた。夜、一人の世界、ある意味では空洞のようなこの世界に、初めから居たかのように振る舞う先生。淡い光の裾を広げて、僕が辿り着くのをずっと待っていた、僕の先生。どんどん奥へと廊下を進んでいくと、扉の数はまばらになって人の気配も少なくなっていく。だんだんと歩みは早くなって、端に向かうに連れて小走りになっていく。先生、今日はどの部屋ですか?お父様の部屋ですか?それとも、宝石部屋ですか?先生?先生はしんと押し黙って答えてくれない。何度も何度も呼びかけるが先生は答えない。自分の口を押さえるようにして、しんと黙り込んで瞬きすら漏らさない。それでも僕は立ち止まれずに廊下を走り、部屋を見て回る。図書室、物置部屋、一昨日出て行った人が住んでいた部屋。ようやく見つけた。
『此処ですよ。さあ、来るならおいでなさい』
先生は窓枠の上、小さな玉座に据えられて夜空の闇を浴びて煌めいていた。深い紺色が玉座に貼られたベルベットの光沢に影を落とし、ベルベットの光がトルマリンの無垢な水色を露わにしている。目玉ほどもない小さなインディゴライトトルマリン、この屋敷で一番自由な先生。夜は光に透かされれば白い裾を覗かせ、先生は光を浴びて湖の青緑、空の水色、無垢な透明を忍ばせる。夜の光を浴びて幻想のように輝くインディゴライトトルマリン。トルマリンを下から覗けばインクのような濃紺が視界を塞ぎ、上から覗けば海底のような深い青が視野を満たす。いくつもの青を纏って自由に笑う先生は、何よりも自由を笑っている。
『良い夜ですね』
先生が楽しそうに囁く、その空気すら先生の表面のように光の粒を纏っている。僕と先生しかいない、僕だけがたった一人生きている夜の世界。何もかもが無機質に覆われて、僕だけが息をして泡を吐いているこの時間。トルマリンが軽やかな輝きを揺らして僕の顔をいたずらに照らす。先生、今日は機嫌がいいですね。今日はなんの話をしてくれるんですか?先生は夜空の中の一等星になったかのように遠くへ行く。夜の合間に垂れた一滴のインクのように、きらきらと小さな石はその身体を主張する。
『良い夜です』
破顔う。
『良い夜だこと』
微笑う。
悪戯に笑って僕の声を交わし続ける。インディゴライトトルマリンは、僕のことなど知らないかのように夜に酔っている。僕はついに、夜の世界で立ち尽くすほかなくなってしまった。僕は改めて周囲を見渡す。本当は立ち入ってはいけない父の書斎、主人の背中を守る大窓。窓から光を浴びて小さな玉座に座るインディゴライトトルマリン、夜の闇だけを埃のようにかぶる僕。僕はとうとうその場に座り込んで、それでもやはり一人の世界という優越感に浸っていた。煩わしい音など一つもない、ただ先生の喜びの声だけがこだまする空間。インクの中に溺れていって、パジャマから足先まで黒に染まっていく。先生、今日は良い夜ですね。
『本当に。良い夜です、これが永遠であればいいものを』
先生はまた一つ煌めいた。
『夜、誰もいない世界』
先生はもうずっと僕を見ていない。僕も先生を見ているわけじゃない。なのに二人して夜を取り合って、相手から主軸を奪おうとする。自分だけの夜の世界、そこにたった一人存在する他の誰か。夢に浮かされる熱は酷く熱くて、先生へ伸ばそうとした指が勝手に引っ込む。きらりと光った先生の裾元の水色は、きっとそれよりもとても熱いだろうと思った。




