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52/54

52 正しさが追いやったもの

改訂で、ラストシーンにチャトの描写を加えました。

第7章 動き始めた歯車  第52話 正しさが追いやったもの


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


9月に入ると新学期が始まっていた。


ななせは以前から考えていた論文に、少しずつ取りかかっていた。

論文を書き始めると、決まって過去の自分が現れる。

その瞬間から、抑え込んでいたはずの想いが、ふつふつと湧き出してきた。

その過去の自分を葬ろうとしていた訳でもない。

まして、目を背けていた訳でもなかった。


ただ、あの頃からずっと、心の奥底には何かが巣食っていた。

どれだけ時が流れても消えることはなく、

自分でも、それが何なのか分からず、言葉にすらできなかった。

書き進めるたびに、ようやく塞がりかけていた古傷を、

自らの手でもう一度こじ開けているような痛みがあった。


今となっては、もう過去のこと――

そんな簡単な言葉で、割り切れるものではない。


贖罪――


罪悪感――


怒り――


父の死を願った自分を赦したいのだろうか。

それとも、あの時の自分を救いたいのだろうか。


あるいは――


今でも誰かを責めたいのだろうか。


答えを探そうとすればするほど、

思考は渦を巻き、同じ場所へと引き戻されていく。


いったい何が、これほどまでにななせの心を掻き立てているのだろう。

そんなすべての想いを振り払うかのように、ななせの指はキーボードを叩き続けた。


カタカタと響く無機質な音。

それはまるで、何かを奏でているようだった。


父への怒りなのか、自分への許しを乞う歌なのか。

ななせ自身にも、その旋律はわからない。


ただ、指だけは止まらなかった。


一文字、また一文字と、画面がななせ色に埋め尽くされていく。


それは論文であると同時に、

ななせが長いあいだ心の奥底に閉じ込めてきたものを、

初めて外の世界へと解き放つ作業でもあった。


題材は、新型コロナウイルスのパンデミックだった。

世界は爆発的に広がる感染によって、恐怖のどん底に突き落とされた。


すべての始まりは、あの忌々しい、目にも見えないほど小さなウイルスだった。


それは世界中の生活を変えた。

そして、ななせの日常も奪い去った。

当たり前だった暮らしを壊し、

家族との絆も、その向き合い方さえも変えてしまった。


なぜ、我が家だったのか――


私が何か悪いことをしたからなの?



そんなことさえ、何度も考えた。

もちろん、答えなどあるはずもない。

それでも、行き場を失った感情は、やがて一人の人間へと向けられていった。


父――北里悠一、その人だった。


父の感染から、我が家の厄災は始まった。


「お父さんさえ感染しなければ……」



そう思い始めた頃、ななせもまた別の何かに感染していた。

だが、それは父からうつされたウイルスではなかった。


怒りだったのか。

それとも恨みだったのか。

何事もなかったかのように暮らす、平穏な家庭への妬みや嫉妬。

誰にも助けを求めることさえできない孤独と失望。

そして、どこにもぶつけることのできない苛立ち。


いくつもの感情が複雑に絡み合い、

やがて、ななせの心には別の病魔が棲みついていた。

それは身体ではなく、心を蝕んでいった。


そしてついには、自分でも恐ろしくなるほど残酷な願いを生み出した。


――お父さんなんて、いっそ死んでしまえばいい。


そうすれば保険金だって入ってくる。

お母さんも、あんなに苦しみながら看病しなくてすむ。

家族だって、もうコロナに怯えなくてすむ。


もう、誰も苦しまなくてすむ。


そうなれば――

そうなれば――


すべて丸く収まる。


そんなふうに考える自分がいた。

だが、そんな願いとは裏腹に、母までも感染してしまった。


次は私だ——


逃げ場など、どこにもなかった。

父は入院していたのに、完治する前に自宅療養に戻された。

母も同じだった。

増え続ける感染者で、病院は溢れかえり受け入れてさえもらえなかった。

重症患者だけを受け入れる——

そう言われても、目の前にいる父も母も、明らかに衰弱しきっていた。

父のことも、母のことも心配だった。


だけど、感染者に近づくことは、自分自身も感染することを意味していた。


感染への恐怖は、ななせの心を締め付けていた。


もし、私まで感染したら——


死ぬかもしれない。

それだけじゃない。

学校での居場所まで奪われてしまう。

近所の人たちからも村八分にされるかもしれない。

いや、すでにそれは始まっていた。

それまで声を掛けてくれていた近所の人たちは、

いつの間にか、誰も家に近づかなくなっていた。

生活だって、コロナ前とは比較にならないほど変わっていた。

外へ出ることもままらない。


食べるものさえ、なかった。


本当に父の死を願っていたのか。

それとも、ただこの厄災から解放されたかっただけなのか。


自分でも、わからなかった。


だけど、あのときは本気でそう考えていた。

考えるのを止めようとすればするほど、その思いは頭から離れなくなった。


涙があふれた。


そんなことを考えてしまう自分が怖かった。

それでも、この状況から抜け出す術は見つからない。

逃げることもできない。

誰かに助けを求めることもできない。

まして、父の死を願っているなど、誰にも打ち明けられるはずもなかった。


パンデミックという未曽有の厄災が、世界を覆い尽くしていたあの頃――


ななせは、ただ何もできずにいた。


いつ終わるのかもわからない。

明日になれば何かが変わるという希望さえない。


ただ、この恐怖から逃れたい。

そう願いながら、終わりの見えない毎日の中に、ななせは囚われ続けていた。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


ななせは、できるだけ冷静に、客観的に、

我が家がどんな状況に陥っていったのかを書き綴った。


けれど、記憶の扉をひとつ、またひとつ開くたびに、

そこに閉じ込められていた感情までが解き放たれ、

ななせの身体の中を駆け巡った。


書かなきゃ、書かなくちゃ――


そう自分に言い聞かせながら、ななせは指を動かし続けた。


ふと、ななせの指が止まった。

ノート型パソコンの画面に、ぼんやりと自分の顔が映り込んでいた。

でも、その自分は、どこか、あの頃の自分を思わせた。

怯え、怒り、誰かを恨み、そして父の死さえ願った自分。

しばらくの間、ななせは動かずに、その自分を見つめていた。


今――


父は生きている。


母も生きている。


自分も、こうして生きている。


みんな、生きている。


感染症という猛威から、生き延びたのだ。


それなのに――


なぜ、こんなにも苦しいのだろうか。

私たち家族は、今のこの状況を素直に喜べるのだろうか。


ふと、そんな疑問が浮かんだ。


感染者数。

重症者数。

病床使用率。

死亡者数。


あの頃、毎日のようにテレビ画面に並んでいた数字を思い出す。

今でも調べれば、厚生労働省が公表した、当時の状況を示す資料が見つかる。


2021年1月1日に発表されたものには、

PCR検査実施人数――4,893,318

陽性者数――234,395

入院治療等を要する者――36,186

うち重症者――716

退院又は療養解除となった者の数――193,714

死亡者数――3,460

確認中――1,619


と記されていた。

人々は数字となって、それぞれの項目へと振り分けられていた。


一人感染すれば、感染者が一人増える。

一人退院すれば、病床が一つ空く。

そして一人亡くなれば、死者が一人増える。


けれど――


その一つひとつの数字には、名前があった。

それぞれに人生があり、その背後には家族がいた。

その人が、何を恐れ、何を失い、どれほど追い詰められていたのか。


そんなものを表す数字は、どこにもなかった。


そして――


私自身を示す数字は、どこにあったのだろう。


国家は、あの数字から何を見ていたのだろうか。

そして、一体何を、何から守ろうとしていたのだろう。


ななせは再びキーボードに指を置いた。


あの頃、政府は国民にさまざまなことを求めていた。


PCR検査をしてください。

マスクを着用してください。

不要不急の外出は控えてください。

都道府県をまたぐ移動は、できるだけ控えてください。

コロナワクチンの接種を検討してください。


感染を広げないために――

自分の命を守るために――

そして、大切な人たちの命を守るために――


やがて、その意識は社会全体へと広がっていった。


接種証明書の提示を求められる場合も生まれた。

職場では、感染者や濃厚接触者が出れば、

周囲への感染を防ぐため、出勤を控えることが求められた。


どれも、感染を広げないためだった。

誰かの命を守るためだった。


けれど、いつしか社会では「任意」であるはずのものが、

「そうしなければならない」という、

新しい暗黙のルールへと置き換えられていったのも事実だ。


少しずつ、少しずつ――


誰もが自分の生活を守ろうとしていた。

家族を守ろうとしていた。

企業も自らの組織を守るため、

非情とも思える行動が報じられることもあった。


その一方で、

社会には排他的な空気が浸透していった。


感染したというだけで、周囲から距離を置かれる。

感染を恐れるあまり、人との接触そのものを避ける。

その中には、感染を理由に職を失う人もいた。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


誰もが自らを守るため、正しい行動をした。


政府が言っている通りの――


正しい行動。


そして、その正しさは、

正しいが故に、感染者に対して極めて厳しいものとなった。


感染しないこと。

感染させないこと。

感染を広げないこと。


それを守ろうとすればするほど、

すでに感染してしまった人は、

その「正しさ」の輪の外側へと追いやられていった。




部屋の片隅では、チャトが静かに佇んでいた。




ななせの指が何度も止まったことも、


その頬を伝う涙も、


チャトのセンサーはすべて捉えていた。



感情を解析し、自律的にプログラムを構築するまでになったチャトにも、

その涙の意味までは、まだ理解できなかった。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



日頃よりご愛読いただき、心から感謝しております。

当面のあいだ更新が不定期となりますこと、何卒ご容赦ください。

今後ともよろしくお願い申し上げます。


※ 本作は近未来を舞台にしたフィクションです。

現実の政治・社会と重なる部分があるかもしれませんが、

登場する団体・人物・名称はすべて創作であり、

特定の組織や個人を批判する意図はありません。

また本作は『国家再編計画書』の理念と制度設計を参照し、

国家構造の再構成をめぐる可能性を探る仮想的シナリオとして

構成されています。


※ 作中の政党名はリアリズムを高めるため、以下のように置き換えています。

自由党・公免党・民立党・民国党・参節党・一心の会・れいの真誠組・共同党・

社守党・日本維持党・チーム将来・中革連 など

(ストーリーの進行に応じて変動・追加される場合があります)


※ 本作は物語の進行にあわせて加筆・修正を行う場合があります。

大きな変更については適宜お知らせいたしますが、

主に文章表現やニュアンスの調整を目的とした軽微なものです。。


※ 本作の文章推敲や表現整理の一部にはAI(ChatGPT)を活用しています。

物語の構想・内容はすべて作者自身のものであり、

AIは読みやすさの調整や資料整理の補助として利用しています。

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