第6話:今度の依頼人は、婚約者を疑う令息
王家縁談監査室は、王宮の東翼にあった。
机の上に書類の塔がいくつも立ち、白手袋の書記官たちが黙々とその塔を崩しては、積み直している。窓は高く、空気はインクの匂い。夜会の広間より、よほど落ち着く場所だった。
「読んだか」
ギデオン様は、ご自分の決裁の山から顔も上げずに言った。私は依頼書の綴りを閉じた。
「読みました。そのうえで、疑問が三つございます」
「言え」
「一つ。子爵家の縁談は、王家の監査の管轄外のはずです。二つ。依頼人の令息は、なぜ町の調査屋ではなく、王宮に駆け込んだのか。三つ——」
「三つ目は」
「殿下はこの依頼について、何を私に言っていないのですか」
近くの書記官が一人、手を止めてこちらを見た。王弟殿下への口の利き方では、なかったのかもしれない。
「一つ目。管轄外だ。だから外に出す。ハトリー事務所への正式な委託として、書面も金も通す」ギデオン様はようやく顔を上げた。「二つ目。依頼人リオネルは、うちの書記官の縁者だ。身内の伝手にすがった、行儀のいい駆け込みだ」
「三つ目は」
「——まだ、言わない」
言わない、と言うのは、嘘をつかない人の答え方だった。私は綴りを抱えて、一礼した。
「結構です。帳尻の合わない依頼ほど、数えがいがありますので」
「……君は、俺の部下の誰より肝が太いな」
「恐れ入ります。ところで殿下、そちらの茶は三杯目ですが、三杯とも一口で止まっています。お口に合わないなら、淹れ直させては」
ギデオン様は茶器を見て、それから私を見て、何も言わずに書類に戻った。白手袋の書記官が一人、咳払いで笑いを殺したのが聞こえた。
*
依頼人のリオネル様は、翌日、事務所にいらした。
子爵子息、二十二歳。誠実な仕立ての上着に、落ち着かない指先。応接室の椅子で、彼は手袋を三度も畳み直した。
「婚約者を……疑うような真似を。最低だと、自分でも思っています」
「最低ではありません。少し前、その椅子で同じことを仰った令嬢がいます。その方は疑ったおかげで、式の前に無事でいらっしゃいます」
リオネル様は顔を上げ、それから、絞り出すように話し始めた。
婚約者はロザモンド嬢。伯爵令嬢。縁談が来たのは半年前、家格は向こうが上なのに、先方から望んでくれた良縁だという。
「ロザモンド嬢は……完璧なのです」
「完璧、と申しますと」
「手紙の返事は必ず翌日に来ます。僕の好きな色を、いつの間にか装いに入れてくださる。母の好物も、妹の刺繍の流行も、教えた覚えがないのにご存知です。僕の贈った指輪は、会うたび必ず着けてくださっている」
「それは、たしかに」私は言った。「完璧すぎますね」
「……最初に言ったのは、妹なんです。『あの方、目が笑っていない』と。僕は笑い飛ばしました。妹に失礼だと叱りさえした。ですが、一度気になると……その、夜、眠れなくなって」
婚約とは、疑いを口に出せない契約であるらしい。男女があべこべになっても、そこだけは同じだ。
「リオネル様。お約束できるのは真実だけです。それがあなたの望む答えとは、限りませんが」
「……構いません。いえ」彼は初めて、まっすぐ私を見た。「何もないと分かったら、僕は一生をかけて、疑った分をあの方に返します。ですから——調べてください」
いい依頼人だと思った。だからこそ、何も出ないことを、柄にもなく少しだけ祈った。
「承りました。あなたの不安の中身を、一緒に数えましょう」
*
三日後。慈善バザーの会場に、私は寄付台帳の記帳係として入り込んだ。地味な結い髪に、度の入らない眼鏡。「グレイ先生」の再登場だった。
ロザモンド嬢は、催しの手伝いに立っていた。初めて見る婚約者殿は、なるほど、完璧だった。
——観察記録。伯爵令嬢ロザモンド。装いは流行の三歩後ろ。笑みは口元から先、目は最後。寄付への礼は、相手の身分で三段階に使い分け。……左手の指輪は、真珠。
指輪。
リオネル様の贈り物は、緑柱石だと聞いている。婚約者と会わない日に何を着けようと自由といえば、自由だが。
その時、会場の入り口がざわめいた。
リオネル様だった。手伝いに立つ婚約者を喜ばせようと、花を抱えて来たらしい。前触れなしで。誠実な人のやることだ。
ロザモンド嬢は一瞬だけ扇を上げ、手袋を直すしぐさをした。
次に見えた時、左手の指輪は、緑柱石に変わっていた。
数えて、四拍。扇の陰の、たった四拍。私は台帳に関係のない数字を書き足すふりをしながら、指先が冷えるのを感じた。あれは着け替えたのではない。着け替え「慣れて」いた。
「まあ、リオネル様。いらしてくださったの」
駆け寄る足取りは完璧で、頬の染め方も完璧だった。花を受け取り、胸に抱く。絵のような婚約者たちに、会場から小さな拍手さえ起きた。
その拍手の中で、彼女の目だけが、笑っていなかった。
目は花を見ず、リオネル様の上着の仕立てを見た。袖口の釦を見た。それから一度だけ、会場の端から端までを検分した。出口と、金目のものと、人の目を数える時の、目の動きだった。
私は、あの目を知っている。毎朝、鏡の中にあるからだ。
観察する者の目。ただし——私のそれと違って、守るためのものでは、なさそうだった。
お読みいただきありがとうございます! 第二章の開幕です。今度の依頼人は「婚約者を疑う令息」。完璧な令嬢ロザモンドの、扇の陰の四拍。
次回「ジェミマの古巣」。下町の調査で、手癖の悪い後輩の過去が少しだけ開きます。
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