第5話:氷の監査卿のスカウト
王家の紋章を掲げた馬車から降りてきたのは、あの夜の桟敷の男だった。
銀色の髪。上背のある体に、飾り気のない黒の上着。歩き方に一切の無駄がなく、応接室の椅子に掛ける前に、部屋の出入り口と窓の位置を目線だけで確認した。
——観察記録。左手の手袋だけ、着け慣れて型がついている。書類仕事の手。腰の剣は飾りではなく、鞘に当たり傷。
つまり、書類と剣の両方を使う人。
「ギデオン・ヴェルクレア」
男は名乗った。
「王弟だ。役目の名で言えば——王家縁談監査卿」
ジェミマが階段の陰で「おうてい」と口の形だけで叫んだのが見えた。エスメですら、わずかに背筋を直した。
王弟殿下。国王陛下の実弟にして、ヴェルクレア公爵。社交界の隅にいた私でも、噂だけは知っている。王族の縁談をことごとく監査で潰す、氷の監査卿。
「オルコット家の夜会を見た」
ギデオン様は、前置きというものを持ち合わせていないらしかった。
「二重婚約の立証。手順に無駄がなく、証拠の並べ方に誇張がない。感情で殴らず、記録で詰めた。……あの断罪は、君が組んだのか」
「所長の監督のもとで、私が」
「そうか」
彼は懐から一通の書状を出し、卓に置いた。王家の、白い封蝋。
「コーデリア・レインズ。王家縁談監査室の嘱託調査人として、君を雇いたい」
応接室が、静まり返った。
「……恐れながら、殿下」私はやっと声を出した。「人違いでなければ、私は先日、社交界で一番派手に婚約破棄された令嬢ですが」
「知っている。ブライア侯爵子息カルヴィン。口上三分」
「醜聞の渦中の女を、王家の監査室に?」
「泣き喚く令嬢なら王都に千人いる。嘘を数える令嬢は、君ひとりだ」
言葉に詰まった。
あの夜、私が泣かずに数えていたことを、この人は知っている。桟敷から見ていたのは、オルコット家の夜会だけではなかったのだ。
「王族の縁談には、金と、家と、国が絡む。着飾った嘘が、毎日山と積まれる。監査室の仕事はそれを崩すことだが——俺の部下は貴族の男ばかりでな。夜会の給仕の顔も、令嬢の手袋の畳み方も、見えない者ばかりだ」
「私なら、見えると」
「見えるだろう。君は二十一年、見られない側にいた」
ひどい言い草だった。そして、完璧に正確だった。
「待ちな」
割って入ったのは、エスメだった。
「殿下。うちの新人を、ずいぶん買ってくださるものだ。……その筋書き、いつから書いてました? オルコットの夜会にあなたが『たまたま』いた、なんて話を、この稼業の年寄りは信じませんよ」
ギデオン様は、エスメを見た。初めて、わずかに間があった。
「——カサンドラ・レインズ」
心臓が、跳ねた。
「九年前まで、王家の縁談調査を請け負っていた民間の調査人だ。腕は監査室の記録に残っている。俺は、その娘の目がどれほどのものか、確かめに来た。それだけだ」
「母を、ご存知なのですか」
「会ったことはない。記録で知っている」彼は立ち上がった。「返事は急がない。三日やる。……ハトリー女史。娘を借りることになったら、詫び金は払う」
「うちは前金制ですよ、殿下」
ギデオン様が去った後も、私はしばらく、封蝋の書状を見ていた。
母が、王家の縁談を調べていた。
裁縫箱の前の妙な稽古。靴を見なさい。帳尻を数えなさい。あれは手慰みの遊びではなく——現役の調査人が、娘に仕込んでいた技術だったのだ。
「エスメさん。話してください。母のこと」
エスメは、長い息を吐いた。それから机の引き出しを開け、古びた帳面を一冊、卓に置いた。表紙に、二人分の署名があった。
『ハトリー&レインズ縁談調査事務所 開業台帳』
「……相棒だったんだよ。あんたの母さんと、あたしは」
「相棒」
「二人でこの事務所を開いた。カサンドラが現場で、あたしが帳場。あの人は本物だった。靴の減り方から領地の借財まで見通す、王都一の目だ。あんたのそれは、正真正銘、あの人の仕込みだよ」
エスメは、私が初日に差し出した母の名刺を——ずっと引き出しにしまってあったらしいそれを、私の前に置いた。裏の掠れた走り書きが、窓の光で読めた。
『エスメへ。娘が来たら、見てやって。 ——C』
「………………」
「初日にあんたの顔を見た時から、分かってたさ。カサンドラの目と、同じ目をしてる」エスメは笑った。「試験なんて言ったがね。あたしは九年前から、あんたを採ることだけは決まってたんだ」
泣く代わりに数える、と決めていた。
けれどこの時ばかりは、数えるものが見つからなかった。窓の光の中の埃を三十まで数えて、諦めた。頬を伝うものは、放っておいた。ジェミマが黙って、洟をかむ紙を寄越した。
*
三日後、私は王家縁談監査室の扉を叩いた。
「コーデリア・レインズ、参りました。……嘱託調査人の件、お受けいたします。ただし」
「ただし?」
「ハトリー事務所との兼務を認めていただきます。私の帰る場所は、あちらですので」
ギデオン様は、書類から顔も上げなかった。ただ、口元だけがかすかに動いた気がした。
「好きにしろ。——初仕事だ、机の上の綴りを読め」
差し出された綴りの依頼書には、こうあった。
依頼人、リオネル子爵子息。調査対象——彼の婚約者である、伯爵令嬢ロザモンド。
「婚約者の令嬢を、調べてほしいという令息だ」
殿方が、令嬢を疑う。今度は、あべこべの依頼だった。
お読みいただきありがとうございます! 第一章、これにて幕です。桟敷の男の正体は王弟にして「氷の監査卿」。そして母カサンドラの遺した名刺の、本当の意味。コーデリアは居場所と、新しい仕事を手に入れました。
次の依頼は「婚約者の令嬢を疑う令息」。完璧すぎる伯爵令嬢ロザモンドの、指輪の秘密とは——明日も更新します!
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