第59話:マティルデの婚礼
婚礼の朝、花嫁が不機嫌だった。
「誰も来ないかもしれません」
支度の部屋で、マティルデ様がそう仰った。姿勢は完璧で、声だけが十九歳だった。
「認可は下りました。監査もございました。……けれど、平民の医師に嫁ぐ大公令嬢の婚礼に、いったいどなたがいらっしゃいますでしょう」
グレーテルさんが、髪を結いながら黙っていた。この人は、慰めない練習を始めたらしい。
「マティルデ様」私は言った。「人数は、数えて差し上げます」
「……調査人どのは、そればかりですね」
「そればかりでございます」
*
広間は、埋まった。数えたので確かである。四百十二人。婚礼認可の日より、百人多い。
貴族が半分。あとの半分は、施薬院の人と、その患者と、患者の家族だった。
「あの、こんなに大勢で」ティルマンが青くなっていた。「先生方、今日は誰が診療を」
「順番待ちだそうです」私は答えた。「四十人ほど並んでおりましたが、皆さん『今日は休診でよい』と」
*
ゼルマ様は、いちばん後ろに立っておられた。私が気づいたのは、式の途中である。白い手袋を、両手で持っておられた。
式が終わって、人が動き出したとき、私はそちらへ歩いた。
「ゼルマ様」
「……調査人どの」
「お越しくださったのですね」
「花嫁教育の係でございますから。最後まで見届けるのが務めでございます」
彼女は手袋を見た。「これは、お嬢様が十二の年に、はじめてお持たせしたものでございます。四十年、同じ形のものを、娘御に持たせてまいりました」
「今日は、お持たせにならなかったのですか」
「必要ございませんでしょう」
ゼルマ様は、手袋を畳み直した。「……あの三人のことを、あなたは数える人がいなかっただけだと仰いました」
「はい」
「わたくしは四十年、数えぬ側におりました」
「はい」
彼女は、そこで少しだけ黙った。「調査人どの。わたくしは、あなたのようには申せません。今からやり直すには、年を取りすぎております」
「存じております」
「ですが」ゼルマ様は顔を上げた。「次の娘御には、こう申します。——認可の取れぬ縁は、縁ではございません。ただし、取れぬ理由は、必ずお訊きなさい、と」
半分だけ、折れた形だった。
半分でいい、と私は思った。私が数えるのは、嘘をついた方の年月である。この方は四十年、一度も嘘をつかなかった。四十年を一日で畳ませたところで、それは私の気が済むだけだ。
*
祝辞は、ジェミマが読んだ。なぜこの子が、と思われるかもしれない。花嫁の希望である。
「あの子が、いちばん働いておりましたもの」とマティルデ様は仰った。
ジェミマは、紙を持って前に出て、五秒ほど固まって、それから読んだ。メルテンの文字で書いた祝辞だった。三行しかない。文法も、たぶん間違っている。ニコラが横で、三度ほど口の形で直していた。
『新しいご夫婦へ。
この国の字は、まだ半分しか読めません。半分でも、お祝いは書けました。
どうぞ、末永く。』
拍手が起きた。
読み終えたジェミマは、真っ赤な顔で戻ってきて、私の袖を引っ張った。
「あんた、笑ったでしょ」
「笑っておりません」
「顔で分かるのよ!」
「……よくできました」
この子は、何か言い返そうとして、やめた。やめて、袖を掴んだまま、しばらく離さなかった。
*
新しい所長代理と、一度だけ話した。白髪の女性である。三十年、書架の管理をしてこられた方だという。
「二百四十五件を、どうなさいますか」
「洗い直します」彼女は即答した。「通すべきでなかった百三十四件は、無効にはいたしません。ご家族がおられますので。……ただし、経緯は追記いたします」
「消さないのですね」
「消しますと、次の者が同じことをいたします」
私は、頭を下げた。「もう一つだけ、お願いがございます」
「なんでしょう」
「却下の記録に、理由を書く欄を設けていただけませんか」
彼女は、少し驚いた顔をした。「……申し立てが通らなかった理由を、残す欄でございますか」
「はい。通らなかった理由が残れば、次の方が数えられます」
「数えて、どうなさいます」
「数が集まりましたら、条文を書き換える理由になります」私は言った。「私にはできませんが、この国の方には、できます」
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帰国は、三日後と決まった。ニコラとは、渡し場で別れた。
「手紙、書く」とこの子は言った。「あんたの国の字で」
「読めますか」
「習う」
ジェミマが屈んで、この子と目線を合わせた。「あたしが返事書くから。こっちの字で」
「じゃあ、二人とも間違える」
「それでいいのよ」
*
出発の朝、大公家の広間を一度だけ見に行った。樫の葉の意匠は、三十七枚のままである。
ここで私は、断罪を二度した。一度目は三分間で、二度目は二十年ぶんだった。
——観察記録。メルテン大公国、滞在、五ヶ月と十一日。受任、二件。完了、二件。
そう控えて、それから、一行足した。
——備考。持ち帰るもの、あり。
*
馬車が動き出したとき、ギデオン様が言った。
「——最後の監査対象を、もう一度」
「なんのお話でしょう」
「王都に着けば、審査の結果が出ている」彼は窓の外を見ていた。「出ていれば、次は式だ」
「そうなりますね」
「一年前、俺は広間の真ん中で君に結論を訊いた」
「はい」
「あのとき、君は数えるのをやめた」
私は、扇を膝に置いた。「よく覚えていらっしゃいますね」
「監査卿だからな。記録は残る」ギデオン様はこちらを向いた。「今度は、最後まで数えないでもらえるか」
窓の外の畑の畝が、まっすぐに流れていく。
国境まで、あと四日。
お読みいただきありがとうございます! 四百十二人の婚礼と、三行の祝辞。ジェミマがこの国に来て最初に「読めない」と言った文字で、最後にお祝いを書きました。
次回、いよいよ第二部の締めくくり。二人の縁談の結論を、王都でお届けします。
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