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婚約破棄された令嬢、縁談調査人はじめました 〜あなたの婚約者の裏の顔、お調べします〜  作者: 藤宮レイ


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第58話:訂正の一行

訂正登記の手続きは、拍子抜けするほど短かった。申請書一枚。添付、監査結果の写し。受理の判は、新しい所長代理が押した。エーベルトの上席にあたる、白髪の女性である。


「お待たせいたしました」


その一言に、十七年と一年が入っていた。


*


書架の三段目。革の背に、金で押された家名。


レインズ。


頁を開くと、あの五文字がある。


——不貞につき。


私は、それを消さなかった。


*


係官が、朱のインクを持ってきた。訂正のための色は、この国では朱と決まっている。


「追記訂正でございます。もとの記載は残し、その下に訂正の旨を記します。……よろしゅうございますか」


「よろしくお願いいたします」


ペン先が、頁に下りた。一年五ヶ月かけて、この一行までたどり着いた。


『訂正。上記理由欄の記載は、根拠を欠く。記載の誤りにつき訂正する。

                   当該記載日より一年五ヶ月を経て、これを追記す。』


朱の字は、黒の字よりよく目立つ。これから先、この頁を開いた人は、二つとも読む。書かれた嘘と、それが嘘だったことと、両方を。


——観察記録。訂正、追記。もとの記載、残置。


私は、それでいいと思った。


「……これ、消したほうがすっきりするんじゃないの」隣でジェミマが言った。朱の字を、下から覗き込んでいる。


「すっきりします」


「じゃあなんで」


「消しますと、一年五ヶ月も消えるからです」


私は、朱の字をなぞった。「この一年五ヶ月、私はこれを知らずにおりました。知らないまま、他人の縁談を検めておりました。……その事実まで消してしまうと、次に同じことをされた方が、証明の仕方を持ちません」


「次の人?」


「はい。次の人が、この頁を見て、こう思えばよろしいのです。——一年五ヶ月かかったが、直った、と」


ジェミマは、しばらく朱の字を見ていた。「……あんた、たまに、すごく遠くの人の話するわよね」


「記録係ですので」


*


もう一件、訂正を出した。十七年前の、依頼四十一。商家の娘の頁である。名は、母の綴りに頭文字しか残っていなかった。ニコラが登記簿から探し出すのに、半日かかった。


『品行に問題あり』


その下に、朱で。


『訂正。上記理由欄の記載は、根拠を欠く。記載の誤りにつき訂正する。』


「ご本人は、どちらに」係官が尋ねた。


「王都におられるかどうかも、存じません」私は答えた。「ですが、ご存命でしたら、いつかどなたかがこの頁を開きます」


「開かれなかったら」


「開かれるまで、残ります」


残るというのは、待てるということである。消してしまえば、待つこともできない。


*


三通目は、母のためのものだった。正確には、母の申し立ての記録である。却下の一行しかない、あの頁。


そこには、訂正すべき誤記がない。母の申し立ては、内容を審査されずに却下されている。誤りではなく、判断が無いのだ。


だから私は、訂正ではなく、別の申請を出した。


『申し立ての再審の記録として、当時の申立人名の追記を求める』


訂正の申し立ては、名を残さない決まりである。その決まりを変えることは、私にはできない。けれど、監査の結果として名が明らかになった場合は、記録に追記できる。第百十二条の但し書き、三十七のうち二十四番目。


四十八日ぶんの返戻の紙束は、こういうときに役に立つ。


朱のペンが、動いた。書いたのは係官の手で、名は母のものである。


『申立人——カサンドラ・レインズ』


十七年前の頁に、母の名が入った。


*


「母様」


小さな声で、呼んだ。書架の三段目は、少し埃っぽい。窓が高くて、光が斜めに落ちてくる。


「持ち帰るものなし、と書いていらっしゃいましたね」


返事はない。


「持ち帰らずに、置いていらしたのだと思います。……こちらに」


私は、頁に手を置いた。九年前、母は最後の調査記録を、婚姻記録の綴りの背に隠した。家族の記録の中に、家族が見つけられる形で。十七年前も、同じことをしていたのだ。負けた申し立ての一行を、この国の書架に残して。


隠したのではない。置いていったのだと、今なら分かる。いつか誰かが、同じ窓口に立つ日のために。


*


書架を出ると、廊下の窓際にギデオン様が立っておられた。


「終わったか」


「はい」


「泣かんのだな」


「泣きません」


「知っている」


彼は窓の外を見た。中庭の樫が、等間隔に三本。


「王都から、返事が来た」


「血統審査の」


「訂正済みの登記をもって、審査を再開する。……形式だけだ。二月ほどかかる」


「二月」


「長いか」


「いいえ」私は扇を開いて、閉じた。「一年五ヶ月に比べれば」


ギデオン様が、短く笑った。「では、その二月で、帰り支度をしよう」


*


宿へ戻る道で、ニコラが並んで歩いた。


「あのさ」


「はい」


「母さんの届け、まだ通ってない」


「はい」


「けど、通らなかった理由、今度から紙に残るんでしょ」


「残ります」


ニコラは、うなずいた。「じゃ、数える」


「あなたが?」


「うん。読めるから」


私は、この子の頭に手を置きそうになって、やめた。ジェミマの役目を取ってはいけない。代わりに、控えの紙を一枚破って、渡した。


「差し上げます。数えるときは、判断を先にしないことです」

お読みいただきありがとうございます! 消さずに、朱で書き足しました。第一部で母が記録を「隠して」守ったのに対して、コーデリアは「書き足して」守ります。十七年前の頁に、ようやく母の名が入りました。


次回「マティルデの婚礼」。依頼の結末と、ジェミマの卒業試験です。


続きが気になりましたら、ブックマークに入れておいてくださいませ。

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