第58話:訂正の一行
訂正登記の手続きは、拍子抜けするほど短かった。申請書一枚。添付、監査結果の写し。受理の判は、新しい所長代理が押した。エーベルトの上席にあたる、白髪の女性である。
「お待たせいたしました」
その一言に、十七年と一年が入っていた。
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書架の三段目。革の背に、金で押された家名。
レインズ。
頁を開くと、あの五文字がある。
——不貞につき。
私は、それを消さなかった。
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係官が、朱のインクを持ってきた。訂正のための色は、この国では朱と決まっている。
「追記訂正でございます。もとの記載は残し、その下に訂正の旨を記します。……よろしゅうございますか」
「よろしくお願いいたします」
ペン先が、頁に下りた。一年五ヶ月かけて、この一行までたどり着いた。
『訂正。上記理由欄の記載は、根拠を欠く。記載の誤りにつき訂正する。
当該記載日より一年五ヶ月を経て、これを追記す。』
朱の字は、黒の字よりよく目立つ。これから先、この頁を開いた人は、二つとも読む。書かれた嘘と、それが嘘だったことと、両方を。
——観察記録。訂正、追記。もとの記載、残置。
私は、それでいいと思った。
「……これ、消したほうがすっきりするんじゃないの」隣でジェミマが言った。朱の字を、下から覗き込んでいる。
「すっきりします」
「じゃあなんで」
「消しますと、一年五ヶ月も消えるからです」
私は、朱の字をなぞった。「この一年五ヶ月、私はこれを知らずにおりました。知らないまま、他人の縁談を検めておりました。……その事実まで消してしまうと、次に同じことをされた方が、証明の仕方を持ちません」
「次の人?」
「はい。次の人が、この頁を見て、こう思えばよろしいのです。——一年五ヶ月かかったが、直った、と」
ジェミマは、しばらく朱の字を見ていた。「……あんた、たまに、すごく遠くの人の話するわよね」
「記録係ですので」
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もう一件、訂正を出した。十七年前の、依頼四十一。商家の娘の頁である。名は、母の綴りに頭文字しか残っていなかった。ニコラが登記簿から探し出すのに、半日かかった。
『品行に問題あり』
その下に、朱で。
『訂正。上記理由欄の記載は、根拠を欠く。記載の誤りにつき訂正する。』
「ご本人は、どちらに」係官が尋ねた。
「王都におられるかどうかも、存じません」私は答えた。「ですが、ご存命でしたら、いつかどなたかがこの頁を開きます」
「開かれなかったら」
「開かれるまで、残ります」
残るというのは、待てるということである。消してしまえば、待つこともできない。
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三通目は、母のためのものだった。正確には、母の申し立ての記録である。却下の一行しかない、あの頁。
そこには、訂正すべき誤記がない。母の申し立ては、内容を審査されずに却下されている。誤りではなく、判断が無いのだ。
だから私は、訂正ではなく、別の申請を出した。
『申し立ての再審の記録として、当時の申立人名の追記を求める』
訂正の申し立ては、名を残さない決まりである。その決まりを変えることは、私にはできない。けれど、監査の結果として名が明らかになった場合は、記録に追記できる。第百十二条の但し書き、三十七のうち二十四番目。
四十八日ぶんの返戻の紙束は、こういうときに役に立つ。
朱のペンが、動いた。書いたのは係官の手で、名は母のものである。
『申立人——カサンドラ・レインズ』
十七年前の頁に、母の名が入った。
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「母様」
小さな声で、呼んだ。書架の三段目は、少し埃っぽい。窓が高くて、光が斜めに落ちてくる。
「持ち帰るものなし、と書いていらっしゃいましたね」
返事はない。
「持ち帰らずに、置いていらしたのだと思います。……こちらに」
私は、頁に手を置いた。九年前、母は最後の調査記録を、婚姻記録の綴りの背に隠した。家族の記録の中に、家族が見つけられる形で。十七年前も、同じことをしていたのだ。負けた申し立ての一行を、この国の書架に残して。
隠したのではない。置いていったのだと、今なら分かる。いつか誰かが、同じ窓口に立つ日のために。
*
書架を出ると、廊下の窓際にギデオン様が立っておられた。
「終わったか」
「はい」
「泣かんのだな」
「泣きません」
「知っている」
彼は窓の外を見た。中庭の樫が、等間隔に三本。
「王都から、返事が来た」
「血統審査の」
「訂正済みの登記をもって、審査を再開する。……形式だけだ。二月ほどかかる」
「二月」
「長いか」
「いいえ」私は扇を開いて、閉じた。「一年五ヶ月に比べれば」
ギデオン様が、短く笑った。「では、その二月で、帰り支度をしよう」
*
宿へ戻る道で、ニコラが並んで歩いた。
「あのさ」
「はい」
「母さんの届け、まだ通ってない」
「はい」
「けど、通らなかった理由、今度から紙に残るんでしょ」
「残ります」
ニコラは、うなずいた。「じゃ、数える」
「あなたが?」
「うん。読めるから」
私は、この子の頭に手を置きそうになって、やめた。ジェミマの役目を取ってはいけない。代わりに、控えの紙を一枚破って、渡した。
「差し上げます。数えるときは、判断を先にしないことです」
お読みいただきありがとうございます! 消さずに、朱で書き足しました。第一部で母が記録を「隠して」守ったのに対して、コーデリアは「書き足して」守ります。十七年前の頁に、ようやく母の名が入りました。
次回「マティルデの婚礼」。依頼の結末と、ジェミマの卒業試験です。
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