第60話:数えない誓い
王家の血統審査の結果は、一枚の紙で届いた。
『相互登記の訂正を確認。婚姻の障害となる事由なし。——認可』
——観察記録。審査結果、認可。所要、二月と六日。理由欄、空欄。
理由の欄が空欄なのは、書くべき理由がなかったからである。私は、その空欄をしばらく見ていた。一年五ヶ月、あそこに五文字が入っていた。空いているというのは、こんなに静かなものなのか。
*
式は、王都で挙げた。大聖堂ではない。三番街の、仕立て屋と質屋に挟まれた建物の前である。
ハトリー縁談調査事務所と、王家縁談監査室。二枚の看板を並べて掛けて、その前に人が集まった。
「王弟殿下のご婚礼が、なぜ三番街なのだ」と、宮内府はずいぶん渋ったらしい。ギデオン様の返事は、一行だったと聞いている。
「監査対象の所在地で行う。規則どおりだ」
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エスメさんは、朝から機嫌が悪かった。
「看板を磨けと言ったのに、誰も磨いてないじゃないか」
「昨日磨きました」
「今朝の埃が乗ってる」
結局、この人は自分で磨いた。銀髪を布で押さえて、脚立に乗って、二枚とも。
「ご祝儀は前金制ですよ、監査卿さま」磨きながら、そう言った。「真実は値引きしないが、身内の縁談なら勉強すると申し上げましたね」
「善処した」ギデオン様が答えた。「詫び金の桁で」
「……ほう」エスメさんは脚立の上で笑った。「あんた、この一年でずいぶん喋るようになったねえ」
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父が来た。レインズ伯爵。一年半ぶりに見る顔は、少し小さくなっていた。
私は挨拶をした。父も挨拶をした。それで終わりかと思った。
背を向けかけたところで、父が言った。呼び止める声を出すのに、たぶん一年半かかっている。
「……お前の頁を、見た」
「はい」
「メルテンのだ。宮内府から写しが回ってきた。……朱で、書き足してあった」
「はい」
父は、しばらく言葉を探していた。探し方が下手な人である。ずっとそうだった。
「あれを、消させなかったのは」
「私の判断です」
「……そうか」
それから、父は、たいそう短く言った。「すまなかった」
一年半分の言葉としては、六文字である。
私は、少し考えて、答えた。「記録しておきます」
*
誓いの言葉は、外で交わした。三番街の通りは狭い。人が入りきらないので、質屋の親父さんが台を出してくれた。ロッティ様が来て、リオネル様が妹君を連れて来て、タンジーが監査室の同僚と来て、いつの間にか通りが埋まっていた。
一年前、私はこの通りを、履歴書を持って歩いた。
——観察記録。
そこまで書いて、私はペンを置いた。置いたつもりだったが、手には何も持っていなかった。型は、身体が覚えている。覚えているものが、また、仕事を放棄していた。
「数えられるか」
ギデオン様が、そう訊いた。
「……いいえ」
「そうか」
「殿下」
「なんだ」
「一年前も、同じでございました」
「知っている」彼は言った。「あのときは、およそ、で止まった」
「今日は、およそも出ません」
「上出来だ」
誓いは、二人とも短かった。私が言えたのは、これだけである。
「——結論だけ、申し上げます。本件に、瑕疵なし」
ギデオン様が言ったのは、これだけだった。
「同意する。——監査、終了」
拍手が、一斉に起きた。三番街の狭い通りでは、音が壁に当たって二度鳴る。
*
ジェミマは、案の定、いちばん派手に泣いた。
「あんたが泣かないから、あたしが代わりに泣くの! 文句ある!?」
「ありません」
「一年前も同じこと言ったわよ、あたし」
「はい」
「……あんた、一年で少しも泣かないじゃない」
「泣きません」
この子は、袖でぐしゃぐしゃに顔を拭いて、それから、思い出したように言った。
「あ。今日、あんたに渡すのあった」
差し出されたのは、紙が一枚。メルテンの文字で、三行。
『ハトリー縁談調査事務所へ。
母さんの届け、まだ通ってない。けど理由が紙に残るようになった。今、三十七件たまった。
ニコラ』
「読めたのですか」
「半分」ジェミマは鼻をすすった。「あと半分は、辞書」
*
その日の夕方、事務所の机に、一通の依頼が届いた。封蝋はない。上等な紙でもない。差出人は、王都の東の平民街。
『娘の縁談を、調べていただきたい。相手の家のことが、どうにも分かりません。前金は、月々でもよろしいでしょうか』
エスメさんが、それを読んで、鼻を鳴らした。「うちは前金制だよ」
「では、お断りしますか」
「月々も前金さ。先にもらうんだから」
「あたしが受けたい」
そう言ったのは、ジェミマだった。事務所の全員が、この子を見た。
「なによ。あたし、もう十六よ」
「十六です」
「三年やった。字も、半分は読める。二か国分」
「一つ半です」
「うるさいわね」ジェミマは依頼状を掴んだ。「これ、貴族の話じゃないでしょ。あんたたち、貴族の縁談ばっかり見てきたじゃない。……こっちは、あたしのほうが分かる」
エスメさんが、腕を組んだ。「お嬢さん。どう思うね」
私は、依頼状を見た。それから、ジェミマの手を見た。盗る指ではなく、写す手になった指である。
「前金の交渉から、ご本人にお任せします」
「やった!」
「ただし、報告書の型は私が検めます」
「うわ、出た」
*
その夜、私は母の綴りを開いた。依頼四十一の頁。『通らず。持ち帰るものなし。』
その下に、余白がある。私は、ペンを取った。
——依頼四十一。追記。十七年後、訂正済み。申立人名、記載あり。
書いてから、少し考えて、もう一行足した。
——持ち帰りました。
*
窓の外で、二枚の看板が風に鳴っている。明日は、新しい依頼人が来る。明後日も、その次の日も来るだろう。縁というものは、この世からなくならない。なくならない限り、検める者が要る。
私は、机の抽斗を開けた。まっさらな依頼書の束。依頼人の欄は、五文字ぶんの幅しかない。
——観察記録。事務所、通常営業。
そう控えて、灯りを消した。
お読みいただきありがとうございます! 第二部、これにて完となります。
第一部で母が記録を「隠して」守ったのに対して、第二部のコーデリアは記録を「書き足して」守りました。消してしまえばすっきりする一行を、あえて残して朱を入れる——この結論を書きたくて、隣国編を書き始めました。長い五ヶ月と十一日にお付き合いいただき、ありがとうございました。
そして事務所に届いた、平民街からの一通。三年前に髪飾りを掏った女の子が、初めて自分で依頼を受けます。第三部、縁談調査人の仕事はまだまだ続きます。
ここまで読んでくださった方へ。ブックマーク・★評価をいただけますと、次の依頼を書く励みになります。どうぞよろしくお願いいたします!




