↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄された令嬢、縁談調査人はじめました 〜あなたの婚約者の裏の顔、お調べします〜  作者: 藤宮レイ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
55/60

第55話:大公の沈黙

婚礼の前夜、大公閣下が私を呼ばれた。書斎には灯りが一つしかなく、卓の上に、開いた帳面が置いてあった。シュトルム殿の帳面である。


「二十年、知っておった」


前置きは、それだけだった。名乗りも、労いも、茶もない。二十年ぶんの話をなさるつもりの人の、始め方である。


呼ばれたのは、私一人である。ギデオン様は廊下まで付いてこられて、扉の前で足を止められた。「君の依頼だ」それだけ言って、壁に背を預けられた。扉が閉まるまで、その姿勢は変わらなかった。


*


「わしが大公位を継いだのは、二十一の年だ」


閣下は帳面を閉じた。「領地は痩せ、父の代からの借財が残っておった。格式だけが山のように残っておってな。そこへ、次席登記官が挨拶に来た」


「ザーラント様が」


「うむ。若い男だった。……こう申した。『閣下、血の格は、数えれば守れます』」


——観察記録。二十年前。大公位継承と、条文の字句整理、同年。


「数えれば守れる、というのは、良い言葉だと思った」閣下は掌を見た。「わしは、うなずいた。それだけだ。あの男に何かを命じたわけではない。金を要求されたわけでもない。……ただ、うなずいた」


「うなずかれた」


「二十年ぶん、うなずき続けた」


*


「閣下は、なぜ今まで黙っておいでだったのですか」


「娘だ」


答えは早かった。用意していた答えではなく、二十年そこに置いてあった答えの出方だった。


「マティルデが十二の年に、あの男が言いに来た。『お嬢様のご縁は、当所が責任をもってお調えいたします』と」


「……人質でございますね」


「そうは言わん。あの男は、そういう言い方をせん」閣下は目を閉じた。「調えると言うだけだ。調えぬとは、一度も言わん。だがわしには分かった。娘の縁は、あの男の手の中にあるとな」


言葉にしない脅しである。一年前、私はそういう方に一人お目にかかっている。あの方は、微笑みながら同じことをなさっていた。


——手口は同じで、仮面だけが違う。


*


「閣下。あの方のお言葉を、もう一度うかがえますか」


「『閣下、血の格は、数えれば守れます』」


「その前に、何か仰いましたか」


閣下は、目を細めた。「……あった。『先代の所長は、匙加減で決めておりました』とな」


私は、控えの紙に書き取った。先代は匙加減で決めていた。だから条文にした——その説明は、正しい。正しいから、二十年通った。いちばん長持ちする嘘は、正しい説明の中に置かれる。


「閣下は、その説明を疑われませんでしたか」


「疑う理由がなかった」閣下は苦く言った。「実際、条文になってから、揉め事は減った。……減ったのだ、確かに」


「はい」


「減った先で、誰が並ばされていたかを、わしは見に行かなんだ」


*


「だが、もう人質は取られておらん」


閣下は目を開けた。「娘の縁は、あなたが通した。あの男の判ではなく、条文で通った」


「はい」


「わしは、二十年ぶりに、何も握られておらん」


閣下は立ち上がった。老いた背が、少しだけ伸びた。


「明日、婚礼の場を監査に貸す。……いや、貸すのでは足りぬな」


「と、申しますと」


「わしも、証言に立つ」


*


「閣下」


「なんだ」


「証言をなさいますと、閣下ご自身も裁かれます」


「裁かれるだろう」


「大公家の格が、損なわれます」


「損なわれるだろうな」閣下は苦く笑った。「わしが二十年守ったのは、格ではなく、格の話をせずに済む静けさだ。……静けさは、明日で終わる」


私は、頭を下げた。「ありがとうございます」


「礼を言われる筋合いはない」閣下は首を振った。「わしは二十年、若い者に押しつけてきただけだ。……そなたの母君にも」


私は、顔を上げた。母の話がこの部屋で出るとは、思っていなかった。


*


「十七年前」


閣下は、灯りの向こうで言った。「王都から調査人が来た。女だった。窓口で四十日、粘っておったと聞いた」


「……ご存じでしたか」


「知っておった。城下で噂になったからな。あの男が、わしに言いに来た。『しつこい方がおられますが、ご心配には及びません』と」


「閣下は」


「うなずいた」


灯りが、揺れた。閣下は、揺れた影のほうを見ておられた。


「わしがあのとき、一言だけ『調べてみよ』と言っておれば、そなたの母君は四十日で帰らずに済んだかもしれん。……そう思ったことが、十七年で、三度ある」


「三度」


「三度だ。三度しか思わなんだ」閣下は自嘲した。「そういう男だ、わしは」


*


私は、しばらく黙っていた。慰めることはできる。閣下は苦しんでおられる。苦しんでおられる方に、そう仰らないでください、と言うのは易しい。けれど私は、記録係である。


「閣下」


「うむ」


「明日、そのお話を、そのままお話しくださいませ」


「……そのまま?」


「はい。うなずいたこと、三度しか思わなかったこと。全部」


閣下は、驚いた顔をされた。「わしを、庇わんのか」


「庇いません」私は控えの紙を出した。「庇えば、閣下は『気の毒な方』として記録に残ります。気の毒な方は、二十年後にもう一度、同じようにうなずきます」


「では、どう残せと」


「うなずいた方として、残してくださいませ」


私は、紙を閉じた。「そのほうが、次の大公閣下のお役に立ちます」


*


書斎を出るとき、閣下が呼び止められた。


「調査人どの」


「はい」


「そなたの母君は、どのような方であった」


私は少し考えて、答えた。


「負けた記録を、破らずに綴じておく方でした」


閣下は、しばらく私を見ておられた。それから、たいそう静かに言われた。


「……そなたも、そうか」


「そのつもりでおります」

お読みいただきありがとうございます! 命じたわけでも金を取ったわけでもなく、ただ二十年うなずき続けた人。庇わずに「うなずいた方」として記録に残す、というのがコーデリアの答えです。


次回「グレーテルの証言」。証拠は揃いました。ただ一つ、あの「二日」を見た人だけが、まだ見つかりません。


面白いと思っていただけましたら、ブックマークをいただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。