第55話:大公の沈黙
婚礼の前夜、大公閣下が私を呼ばれた。書斎には灯りが一つしかなく、卓の上に、開いた帳面が置いてあった。シュトルム殿の帳面である。
「二十年、知っておった」
前置きは、それだけだった。名乗りも、労いも、茶もない。二十年ぶんの話をなさるつもりの人の、始め方である。
呼ばれたのは、私一人である。ギデオン様は廊下まで付いてこられて、扉の前で足を止められた。「君の依頼だ」それだけ言って、壁に背を預けられた。扉が閉まるまで、その姿勢は変わらなかった。
*
「わしが大公位を継いだのは、二十一の年だ」
閣下は帳面を閉じた。「領地は痩せ、父の代からの借財が残っておった。格式だけが山のように残っておってな。そこへ、次席登記官が挨拶に来た」
「ザーラント様が」
「うむ。若い男だった。……こう申した。『閣下、血の格は、数えれば守れます』」
——観察記録。二十年前。大公位継承と、条文の字句整理、同年。
「数えれば守れる、というのは、良い言葉だと思った」閣下は掌を見た。「わしは、うなずいた。それだけだ。あの男に何かを命じたわけではない。金を要求されたわけでもない。……ただ、うなずいた」
「うなずかれた」
「二十年ぶん、うなずき続けた」
*
「閣下は、なぜ今まで黙っておいでだったのですか」
「娘だ」
答えは早かった。用意していた答えではなく、二十年そこに置いてあった答えの出方だった。
「マティルデが十二の年に、あの男が言いに来た。『お嬢様のご縁は、当所が責任をもってお調えいたします』と」
「……人質でございますね」
「そうは言わん。あの男は、そういう言い方をせん」閣下は目を閉じた。「調えると言うだけだ。調えぬとは、一度も言わん。だがわしには分かった。娘の縁は、あの男の手の中にあるとな」
言葉にしない脅しである。一年前、私はそういう方に一人お目にかかっている。あの方は、微笑みながら同じことをなさっていた。
——手口は同じで、仮面だけが違う。
*
「閣下。あの方のお言葉を、もう一度うかがえますか」
「『閣下、血の格は、数えれば守れます』」
「その前に、何か仰いましたか」
閣下は、目を細めた。「……あった。『先代の所長は、匙加減で決めておりました』とな」
私は、控えの紙に書き取った。先代は匙加減で決めていた。だから条文にした——その説明は、正しい。正しいから、二十年通った。いちばん長持ちする嘘は、正しい説明の中に置かれる。
「閣下は、その説明を疑われませんでしたか」
「疑う理由がなかった」閣下は苦く言った。「実際、条文になってから、揉め事は減った。……減ったのだ、確かに」
「はい」
「減った先で、誰が並ばされていたかを、わしは見に行かなんだ」
*
「だが、もう人質は取られておらん」
閣下は目を開けた。「娘の縁は、あなたが通した。あの男の判ではなく、条文で通った」
「はい」
「わしは、二十年ぶりに、何も握られておらん」
閣下は立ち上がった。老いた背が、少しだけ伸びた。
「明日、婚礼の場を監査に貸す。……いや、貸すのでは足りぬな」
「と、申しますと」
「わしも、証言に立つ」
*
「閣下」
「なんだ」
「証言をなさいますと、閣下ご自身も裁かれます」
「裁かれるだろう」
「大公家の格が、損なわれます」
「損なわれるだろうな」閣下は苦く笑った。「わしが二十年守ったのは、格ではなく、格の話をせずに済む静けさだ。……静けさは、明日で終わる」
私は、頭を下げた。「ありがとうございます」
「礼を言われる筋合いはない」閣下は首を振った。「わしは二十年、若い者に押しつけてきただけだ。……そなたの母君にも」
私は、顔を上げた。母の話がこの部屋で出るとは、思っていなかった。
*
「十七年前」
閣下は、灯りの向こうで言った。「王都から調査人が来た。女だった。窓口で四十日、粘っておったと聞いた」
「……ご存じでしたか」
「知っておった。城下で噂になったからな。あの男が、わしに言いに来た。『しつこい方がおられますが、ご心配には及びません』と」
「閣下は」
「うなずいた」
灯りが、揺れた。閣下は、揺れた影のほうを見ておられた。
「わしがあのとき、一言だけ『調べてみよ』と言っておれば、そなたの母君は四十日で帰らずに済んだかもしれん。……そう思ったことが、十七年で、三度ある」
「三度」
「三度だ。三度しか思わなんだ」閣下は自嘲した。「そういう男だ、わしは」
*
私は、しばらく黙っていた。慰めることはできる。閣下は苦しんでおられる。苦しんでおられる方に、そう仰らないでください、と言うのは易しい。けれど私は、記録係である。
「閣下」
「うむ」
「明日、そのお話を、そのままお話しくださいませ」
「……そのまま?」
「はい。うなずいたこと、三度しか思わなかったこと。全部」
閣下は、驚いた顔をされた。「わしを、庇わんのか」
「庇いません」私は控えの紙を出した。「庇えば、閣下は『気の毒な方』として記録に残ります。気の毒な方は、二十年後にもう一度、同じようにうなずきます」
「では、どう残せと」
「うなずいた方として、残してくださいませ」
私は、紙を閉じた。「そのほうが、次の大公閣下のお役に立ちます」
*
書斎を出るとき、閣下が呼び止められた。
「調査人どの」
「はい」
「そなたの母君は、どのような方であった」
私は少し考えて、答えた。
「負けた記録を、破らずに綴じておく方でした」
閣下は、しばらく私を見ておられた。それから、たいそう静かに言われた。
「……そなたも、そうか」
「そのつもりでおります」
お読みいただきありがとうございます! 命じたわけでも金を取ったわけでもなく、ただ二十年うなずき続けた人。庇わずに「うなずいた方」として記録に残す、というのがコーデリアの答えです。
次回「グレーテルの証言」。証拠は揃いました。ただ一つ、あの「二日」を見た人だけが、まだ見つかりません。
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