第53話:ニコラの足
八日目の夜明け前、登記所の裏口が開いた。見張っていたのはニコラである。荷車の下は、この子の縄張りだ。
「木箱、四つ。地下から出した」
宿に駆け込んできた報せは、それだけだった。それだけで足りた。
——観察記録。八日目、夜明け前。登記所地下より木箱四。行き先、不明。
「地下には、条文の原本がございます」
私は上着を掴んだ。夜明け前の宿は冷えていて、袖を通す手がうまく動かなかった。
上着を掛ける釘は、隣が空いていた。ギデオン様は、昨夜から戻っておられない。
いつもなら、走る前に一度あの方の顔を見る。見てから出ると、走り方が決まる。今朝は、見ずに出た。
「あんた、走れんの」ジェミマが言った。
「走ります」
「無理でしょ、その靴」
この子は自分の靴を脱いで、私の前に放った。
*
原本が動くと分かったのは、前の日である。大公閣下がシュトルム殿を更迭された。更迭は公になる。公になれば、次に何が起きるかは、この四十八日で嫌というほど学んだ。
役所は、規則どおりに動く。規則どおりに、不要となった古い綴りを「保管替え」する。保管替えの行き先は、書かなくてよい。
「保管替えの申請は、昨日の午後に出ております」私は走りながら言った。「様式は完璧でした。……この方たちは、隠すときも書式を整えます」
「腹立つわね!」
「はい」
*
南の街道は、途中で川を渡る。渡し場で、荷は必ず一度下ろされる。
ヴィルデ男爵のときと同じ手が使えるか——使えない。あのときは落とし物だった。今度は正規の保管替えである。渡し守に預けさせる口実がない。
「じゃ、どうすんの」ジェミマが並走しながら叫んだ。
「先に着いて、写します」
「写す!?」
「押さえられないなら、中身だけ持ち帰ります」
*
渡し場に着いたのは、荷車より半刻早かった。ニコラが近道を知っていたからである。畑の畝がまっすぐな国は、畝の間もまっすぐだ。この子は、それを走った。
荷車が来た。木箱が下ろされた。渡し守が積み替えのために蓋を開ける——この国では、水に濡れる荷を検めてから船に載せる決まりがある。几帳面な国は、こういうところでこちらを助ける。
蓋が開いているのは、四半刻。
ジェミマが、木箱の前に立った。「読める人、貸して」
ニコラが横に付いた。二人とも、もう誰の許しも待っていなかった。
*
四半刻で、二人は三十七枚を写した。ニコラが読み上げ、ジェミマが写す。もう相談はしていない。線の向きも、崩れ方も、揃っている。
三十七枚目を写し終えたとき、蓋が閉まった。
ジェミマは、写しの束を胸に抱えて、しゃがみ込んだ。
「……あたし」
「はい」
「指、一回も使わなかった」
顔を上げたこの子は、笑っているのか泣いているのか分からない顔をしていた。
「あたし、盗るのしかできないと思ってたのよ。ずっと。あんたが字を教えるって言ったときも、正直、なんの役に立つのって思ってた」
「今は」
「今は、こっちのほうが速いってわかる」ジェミマは束を叩いた。「盗ったら追われるじゃない。写したら、誰にも気づかれないで持って帰れる」
「よくできました」
「棒読みじゃない?」
「棒読みではありません」
*
渡し守が船を出したあと、私たちは土手に座った。三十七枚を、順に並べる。木箱の中身は、条文の綴りだけではなかった。保管替えの目録が一枚、いちばん上に入っていた。
——観察記録。目録、一枚。品目、十一点。うち、行き先の記載があるもの、零点。
「行き先、書いてないの?」ジェミマが覗き込んだ。
「保管替えは、行き先を書かなくてよい決まりです」
「じゃあ、どこ行くのよ、これ」
「分かりません」私は目録を控えの紙に写した。「ただ、目録は残ります。何が動いたかは、これで数えられます」
「動いた先は?」
「そちらは、追いません」
ジェミマが顔をしかめた。「追わないの?」
「十日しかございませんので」私は写しを揃えた。「追えるものと、追えないものを分けるのも仕事です。……いま要るのは、中身のほうです」
*
写しの中に、それはあった。
二十年前の、条文の原本。第百四条の行に、後から書き足された三文字がある。書き足しの筆跡と、余白の裏書きの筆跡。
そして、承認の欄。
——承認、次席登記官ザーラント。
「……自分で提案して、自分で承認してんの?」ジェミマが目を剥いた。
「当時の所長は、病で臥せっておられたそうです」私は写しを揃えた。「代理を務めるのは、次席です」
「代理が条文を変えるって、ありなの!?」
「字句の整理でしたら、ありです」
*
宿へ戻る道で、ニコラが横を歩いた。
「あのさ」
「はい」
「これ、通ったら。母さんみたいな人、通るようになる?」
私は、少し考えた。嘘をつくのは簡単だった。この子には、通ると言ってやりたかった。
「分かりません」
ニコラは、うなずいた。「うん。知ってた」
「ただ、一つだけ申し上げられます」私は写しの束を見せた。「通らなかった理由が、これから先は紙に残ります。理由が残れば、次の人が数えられます」
「……数えたら、変わるの」
「変わるまで、数えます」
ニコラは、しばらく黙って歩いた。それから、ジェミマの袖を引っ張って、小さな声で何か言った。
ジェミマが吹き出した。ニコラのほうは、言い終わってから自分で照れていた。
「なんて言ったのですか」
「あんたのこと、『こわい人』だって」
「……そうですか」
「褒めてんのよ」ジェミマは笑った。「あたしも最初、そう思ったもの」
お読みいただきありがとうございます! 盗る腕ではなく写す手で、ジェミマが最大の仕事をしました。「盗ったら追われるけど、写したら気づかれないで持って帰れる」——この子なりの結論です。
次回「三代を数える」。二十年ぶんの認可を、全部数え直します。
感想も評価も、ありがたく読んでおります。よろしくお願いいたします!




