第52話:家令シュトルムの帳面
二日で金の話が片づく城下、というものを、私は知らなかった。知らないものは、知っている人に訊く。
「ニコラ。この城下で、貴族の使いが金を動かすとしたら、どこを通りますか」
「両替商」ニコラは即答した。「三軒ある。でも貴族は自分じゃ行かない」
「誰が行きますか」
「家令」
*
大公家の家令シュトルム殿は、指輪を三つしている。一つは家紋。あとの二つは、石が付いている。石の付いた指輪をする家令を、私は王都で一人も見たことがない。
「削るという手もございます、とおっしゃいましたね」
七日目の朝、私は執務室の扉を叩いた。「頁を差し替える、と。手続きに詳しい者がいる、とも」
「世間話でございますよ」
「その方のお名前を伺えますか」
シュトルム殿は笑った。笑いながら、机の抽斗に手を掛けた。掛けて、掛けたまま止めた。
——観察記録。抽斗、上から二段目。手を掛けて、止める。……そこに、あるのだ。
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「大公閣下は、ご存じですか」
「何をでございましょう」
「あなたが、認可の順番を早める窓口をなさっていることを」
「……言いがかりでございますな」
「では、伺い方を変えます」私は控えの紙を開いた。「ヴィルデ男爵の帳面に、礼の受取人の欄がございます。三十四件、全て頭文字が『シ』でした」
彼の手が、抽斗から離れた。離れた指が、行き場を探して指輪を回しはじめた。
「城下で頭文字が『シ』の家令は、あなただけではございません。ですから、これは証拠になりません」
「では——」
「なりませんので、こちらを持ってまいりました」
私は二枚目の紙を出した。「両替商三軒の、四年ぶんの受付簿の写しです。両替商は、大口の両替を控える決まりだそうですね。……こちらも、公開はされておりませんが、大公閣下のご署名があれば見せていただけます」
「閣下の署名を、あなたが」
「マティルデ様に、お頼みしました」
*
シュトルム殿は、椅子に座り直した。そして、開き直った。
「——大公家の格を保つ費用でございます」
「費用」
「あなたにはお分かりにならんでしょうな」彼は指輪を回した。「大公家は、四代前から領地の実入りが落ちております。格式だけが残った。格式を保つには金が要る。金は、動く場所からしか取れません」
「縁談から取られたのですね」
「縁談は、この国でいちばんよく動きます」
「三年待たされた令嬢がおられます」
「三年でお済みでしたでしょう」彼は言った。「わたくしが調えて差し上げなければ、十年でございます」
私は、扇を膝の上に置いた。
「シュトルム殿。あなたのおっしゃることには、一つだけ正しいところがございます」
「ほう」
「この仕組みで、実際に縁が通った方がおいでです。金を払って、通って、いま幸せに暮らしておられる方が」
「そうでございましょう」
「ですから私は、その方たちを数えません」私は立ち上がった。「数えますのは、払えなかった方たちのほうです」
*
「もう一つ、伺わせてください」
シュトルム殿は、指輪を回す手を止めなかった。
「所長さまは、いくら受け取っておられますか」
「……あの方は、金を受け取りません」
私は、扇を落としそうになった。この一件で予想を外したのは、これが初めてである。
「受け取らない」
「一度も」彼は言った。「わたくしが調え、わたくしが受け取り、わたくしが使う。あの方には、一枚も渡しておりません」
「では、あの方は何のために順番を早めておられるのですか」
「早めてなどおられません」シュトルム殿は、心底おかしそうに笑った。「あの方は、二日待たれるだけでございます。二日のあいだに話がつけば、順番が繰り上がる。つかなければ、順どおり。……あの方は、何もなさらない」
「何もなさらないことが、仕組みになっている」
「さようで」
——観察記録。所長、金銭の授受なし。行為、待つことのみ。
いちばん厄介な形だった。責める言葉が、どの帳面からも出てこない。
*
抽斗の帳面は、その日の午後、大公閣下ご自身の手で開かれた。私は同席しなかった。閣下が人払いをされたからである。
一刻半後、扉が開いた。出てきた閣下の顔を見て、私は一つだけ理解した。
この方は、知っておられた。
*
「調査人どの」
閣下は、廊下でそう呼ばれた。声が、老いていた。
「シュトルムを、更迭する」
「はい」
「……それだけでは、足りぬのだろうな」
「足りません」
閣下は目を閉じた。「わしを、憎むか」
「憎みません」
「なぜだ」
「憎みますと、数え間違えますので」
私は控えの紙を胸に抱えた。「閣下。あと三日ございます。三日のうちに、お決めいただきたいことが一つございます」
「なんだ」
「婚礼の場で、閣下がどちら側にお立ちになるかでございます」
*
その夜、帳面の写しを卓に広げた。支出の欄。年ごとに、まとまった額が同じ月に出ている。
その中に、一つだけ、毛色の違う記載があった。
九年前。支出ではなく、収入。王都からの入金である。摘要の欄には、たった二文字。
——謝礼。
「……あんた」ジェミマが息を詰めた。「九年前って」
「はい」
母が亡くなった年である。
私は、その二文字を長いあいだ見ていた。見ていたが、それ以上のことは書かなかった。
——観察記録。九年前、王都からの入金一件。摘要、謝礼。差出、記載なし。
繋がるかもしれない。繋がらないかもしれない。繋げたい気持ちがあるときほど、調査人は線を引いてはいけない。
私は写しを閉じて、明日の分の紙を並べ直した。
並べ終えてから、もう一度だけ、その頁を開いた。
お読みいただきありがとうございます! 「大公家の格を保つ費用です」——開き直る敵は、逆上する敵より書いていて怖いものがあります。
次回「ニコラの足」。押さえるべき書類が、城下から運び出されます。
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