第49話:エスメの手紙
『お嬢さん。
あんたの手紙を三度読んだ。三度目に、金庫を開けた。
十七年前のことを、あたしは一度、あんたに話したね。証人に立つはずだった娘が「事故」に遭って、あたしは手を引いた。守るものがある者は、あの人に勝てない。そう言った。
あれは、嘘じゃないが、全部でもない。
手を引く前に、あたしらはもう一度だけ、二人で仕事をしている。国境の向こうだ。』
*
私は、灯りを引き寄せた。ジェミマが向かいで、身を乗り出していた。読んで聞かせてほしい、という顔だった。私は続きを声に出した。
『依頼人は、王都の商家の娘さんだった。この国の貴族と縁組をして、認可が下りなかった。
下りなかっただけなら、まだよかった。不認可のあと、あちらの登記に理由が書き足された。「品行に問題あり」。根拠は何もない。娘さんは王都に戻されて、その一行のせいで、王都でも縁談が三つ流れた。
カサンドラは、それを直しに行った。
あたしは、行かなかった。事務所を空けられなかったからだ。……そういうことにしてある。』
*
『あの人は、四十日通ったよ。
手紙が来るたび、様式が違うだの、資格がないだの、期限がどうだの書いてあった。あたしは読んで、腹を立てて、返事に「帰っといで」と書いた。
最後の手紙は、短かった。
「通らず。持ち帰るものなし。」
それだけ。
帰ってきたあの人は、いつもどおりだった。飯を食って、次の依頼を受けて、帳面をつけた。あたしが訊いても、笑って肩をすくめただけさ。
ただ、あの日から、あの人は綴りに負けを書くようになった。それまでは、勝った依頼しか綴じてなかったのに。』
*
『お嬢さん。
あたしは長いこと、あの一件をあの人の負けだと思ってた。
この間、あんたの手紙を読んで、金庫の奥をもう一度あさって、依頼四十一の頁をひっぱり出した。そうしたら、綴じ込みが一枚多かった。
余白に書いた一行の裏に、もう一枚あったんだ。あの人の字で、こう書いてある。
「当該係官、エーベルトの名にて処理。上席の指示との由。上席の名——ザーラント。」
あの人は、名前を控えてたよ。
通らなかった申し立ての、担当者の名前を。十七年、金庫の中で待たせてた。』
*
「……エーベルト?」ジェミマが素っ頓狂な声を上げた。手紙を覗き込んだまま、王都の字のところだけ指でなぞっている。
「同じ名です」私は紙を握った。「十七年前の担当者はエーベルト。今の相互登記係もエーベルト」
「同じ人?」
「年が合いません。今のエーベルトは二十代です」
「じゃあ」
「父か、伯父でしょう。この国の役所は、家で務めを継ぎます」
窓口の顔ぶれは変わる。名は変わらない。継がれた名の下で、同じやり方が続く。
*
『最後に一つだけ書いておく。
あの人が負けたのは、証拠が足りなかったからじゃない。証拠は揃ってたんだ。娘さんの品行を証す証言も、根拠がないことの証明も、全部持って行った。
それでも通らなかったのは、判を押す者と、判の要件を決める者が、同じ人間だったからだよ。
あの人はそれを最後まで言葉にできなかった。あたしも十七年、できなかった。
あんたは、もうそこに立ってるんだろう。
うちは前金制だよ。ただし真実は値引きしない。——あの人が唯一、負けを書き残した頁だ。あんたが破れるなら、破ってやっとくれ。
エスメ・ハトリー』
*
『追伸。
あんたの母親のことで、一つだけ言い忘れてた。
あの人は、あんたが生まれた年に、綴りの書き方を変えてる。それまでは依頼の番号と結果だけだった。あんたが生まれてから、備考の欄を作った。
なんで作ったのか、訊いたことがある。
「娘が読むかもしれないから」と言った。
あたしは笑ったよ。まだ乳飲み子じゃないか、とね。
あの人は真顔で、こう返した。
「読める頃には、わたしはもう説明してやれない」
……お嬢さん。あの備考欄は、あんた宛てだ。あんたが生まれてから、あたしらが別れるまでの四年ぶん。それきり、あの人は一人で書くようになった。』
*
読み終えて、私は手紙を膝に置いた。しばらく、何も言えなかった。
——観察記録。書けない。
灯りが揺れて、ジェミマが洟をすすった。この子はさっきから、手紙のほうを見ないようにしている。
「あんた」
「はい」
「泣いてもいいわよ」
「泣きません」
「知ってる。言ってみただけ」
この子は袖で目をこすって、それから怒ったように言った。「じゃ、あたしが代わりに泣くから。文句ある?」
「ありません」私は手紙を畳んだ。「……ありがとう、ジェミマ」
*
母は、負けた。負けたけれど、名前を控えた。控えて、金庫に入れて、十七年待たせた。
あの人は、いつか誰かが同じ窓口に立つと思っていたのだろうか。そこまでは、書かれていない。書かれていないことを推し量るのは、調査人の仕事ではない。
私は控えの紙を開いて、一行だけ書いた。
——観察記録。判を押す者と、要件を決める者。同一人物。
そして、その下に、もう一行。
——ならば、要件のほうを検める。
お読みいただきありがとうございます! 母は負けましたが、負けた相手の名前を控えて、十七年金庫で待たせていました。エスメさんの手紙は、第二部でいちばん書きたかった一通です。
次回「訂正の一行を、書かせます」。証拠が効かないなら、戦い方のほうを替えます。
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