第48話:監査卿の管轄外
翌朝、ギデオン様がいなかった。宿の主人に訊くと、夜明け前に馬で出られたという。行き先は、登記所。
私は着替えて、走った。走ったのは、たぶん一年ぶりだった。
*
所長室の扉は開いていた。
「——王家縁談監査室の名において、当該記載の根拠の開示を求める」
ギデオン様の声だった。低く、短く、前置きがない。命令の形をしている。
ザーラント様は、机の向こうで立っていた。
「殿下。当国に、その権限はございません」
「王弟の名でもか」
「王弟であらせられるのは、あちらの国でございます」
私は扉の前で止まった。
——観察記録。所長、直立。声、平静。手、机の上。……この方は、王弟に対しても、頭を下げない。
「では、外交の筋を通す」
「お通しくださいませ。当国の宮内府から当所へ照会が参りましたら、規則どおりに処理いたします」ザーラント様は少しだけ首を傾げた。「……順番待ちの列が、四十人ほどございますが」
*
「殿下」
私が声を掛けると、ギデオン様が振り向いた。こういう顔を見るのは、初めてだった。
一年前、白鳩会の内偵資料の前でも、この方は冷静だった。オクタヴィアの微笑の前でも、崩れなかった。いま、この方は、怒っていた。それも、うまくいかない怒り方をしていた。
「……戻れ」
「戻りません」
「コーデリア」
名を呼ばれたのは、二度目である。一度目は、一年前の広間だった。
*
廊下へ出るまで、二人とも黙っていた。中庭の樫の下で、私は言った。
「殿下。お止めください」
「何をだ」
「王弟のお立場で、押し通すことです」
彼は足を止めた。
「あの一行は、事実ではない」
「はい」
「事実でないものが、君の名の下に一年残った。俺はそれを、手続きの順番待ちで直せと言われている」
「はい」
「俺には、それを飛び越える力がある」
「ございます」私はうなずいた。「ですから、申し上げております」
風が、樫の葉を鳴らした。この国の樫は、等間隔に植わっている。
「殿下の権威で通した訂正は」私は言った。「あの方たちが売っていたものと、同じです」
*
ギデオン様は、動かなかった。長い時間だった。私は、その間に樫の葉を数えることもしなかった。数えれば、この方の顔から目を逸らすことになるからだ。
「……そうだな」
彼は、ようやく言った。「同じだ」
「はい」
「四百枚を払うか、王弟の名を使うか。窓口から見れば、どちらも列を飛ばす者だ」
「はい」
「腹立たしいな」
「はい」
彼は短く笑った。笑ってから、少し肩の力が抜けたようだった。
「君は、こういうときに慰めん」
「慰めても、事実が変わりませんので」
「知っている。……知っているが、たまには嘘をついてもいいぞ」
「私の商売に差し支えます」
*
「一つ、伺ってもよろしいですか」
「言え」
「殿下は、なぜ夜明け前に出られたのですか」
ギデオン様は、少し黙った。「君に止められると思ったからだ」
「止めました」
「間に合わなかった」
「間に合っております」私は言った。「所長は、何一つ渡しておりません」
「……そうだな」
彼は、自分の掌を見た。「一年前、俺は君の後ろに立っていればよかった。証拠は君が集め、断罪は君がやり、俺は監査権で場を作った。……役割がはっきりしていた」
「はい」
「ここでは、俺の役割がない」
言い方が、思ったより率直だった。私は、この方が「役に立たない」ということを言葉にするのを、初めて聞いた。
*
「一つ、確かめさせてくれ」
ギデオン様が、樫の幹に背を預けた。「君は、この件で俺の力を使わなかった。……使えば早い。それは分かっているな」
「分かっております」
「使わない理由は、筋のためか。それとも」
彼はそこで、言葉を切った。私は少し考えて、正直に答えることにした。
「両方でございます」
「両方」
「筋のためが半分。もう半分は——」扇を開いて、閉じた。「殿下に、私を助けさせたくないのだと思います」
「なぜだ」
「助けていただいた縁は、助けていただいた形で残りますので」
言ってから、少し言い過ぎたと思った。けれど、この方は怒らなかった。樫の幹から背を離して、こちらへ二歩来て、それから言った。
「俺は、君の隣に立ちたいのであって、君の上に立ちたいわけじゃない」
*
——観察記録。
書けなかった。
この方の前で観察記録が書けなくなるのは、これで何度目だろう。数えていない。数えていないことに、私はもう驚かなくなった。
「殿下」
「なんだ」
「一つだけ、お願いがございます」
「言え」
「私が窓口に並ぶあいだ、隣に立っていてくださいませ」
「列にか」
「列にです。四十人おりますので、しばらくかかります」
ギデオン様は、真顔でうなずいた。
「公務だな」
「公務でございます」
*
その日の夕方、王都から封書が届いた。分厚かった。差出人の名を見て、私は少しだけ、扇の要を握る手をゆるめた。
エスメ・ハトリー。
封の蝋に、指の跡が二つ付いている。急いで押した跡だ。あの人が急ぐのを、私は一度しか知らない。
お読みいただきありがとうございます! 守れる力を持っている人が、その力を使わないと決める回でした。「隣に立ちたいのであって、上に立ちたいわけじゃない」——ギデオンの回答です。
次回「エスメの手紙」。急いで押された封蝋の中身を、お届けします。
ブックマークと★で、この物語の背中を押していただけますと幸いです。




