第46話:消してください、とは言いません
「削るという手もございます」
そう言ったのは、大公家の家令シュトルム殿だった。私が呼ばれたのではない。廊下ですれ違って、向こうから声を掛けてきたのである。
「頁を差し替えるのです。相互登記は写しでございますから、原本は王都にある。王都に無い欄が消えても、誰も困りません」
——観察記録。家令シュトルム殿。五十前後。指輪、三つ。話しかける距離、近い。……こちらの困り事を、なぜご存じか。
「差し替えは、どなたがなさるのですか」
「そこは、まあ」彼は笑った。「手続きに詳しい者が」
「おいくらでしょう」
「大公家のお客人から、いただくつもりはございません」
いただくつもりがない、という言い方をする人は、たいてい別の形で受け取っている。
「ご親切に。けれど、結構でございます」
「なぜです」
「私は、記録係でございますので」
*
ザーラント様のところへ行ったのは、その午後だった。
「訂正を申し立てます」
「証明はお持ちですか」
「ございません」
彼は眼鏡を押し上げた。「では、受理できません」
「承知しております」私は椅子に座ったまま言った。「本日は、申し立ての前に一つだけ、確かめさせていただきたいことがございます」
「なんでございましょう」
「訂正には、二つのやり方があると伺いました。一つは、誤った記載を消して書き直す。もう一つは、誤りである旨を書き足して残す」
「ございます。前者を抹消訂正、後者を追記訂正と申します」
「どちらも、認められておりますか」
「認められております。ただ、抹消訂正のほうが手続きが重うございます」ザーラント様は少し首を傾げた。「軽いほうをお選びになりますか」
「いいえ」
私は膝の上で手を組んだ。「私が求めますのは、追記訂正でございます。——消してくださいとは、申しません」
*
彼は、初めて意外そうな顔をした。「消せるものなら、消したいのが普通でございましょう」
「普通でございましょうね」
「あなたの頁には、事実でないことが書かれている。あなたはそうおっしゃった。事実でないなら、無いほうがよろしい」
「よくございません」
「なぜです」
「消せば、書かれた事実ごと無かったことになるからです」
窓の外で、荷車が通った。この国の午後は、どこもかしこも几帳面な音がする。
「あの五文字は、一年前に、確かに書かれました。誰かが調べもせずに書き、私はそれを一年知らずにおりました。……消してしまえば、その一年も消えます」
「一年を、残しておきたいと」
「はい」
「なぜ」
「私は、記録係でございますので」私は顔を上げた。「無かったことにするのが仕事なら、私は今ごろ、別の職に就いております」
*
——観察記録。私が母から教わったこと。
母は、最後の調査記録を隠した。手帳が奪われることを見越して、婚姻記録の綴りの背に、家族の記録に紛れさせて。
隠したのは、消すためではない。残すためだ。九年後に、娘が見つけた。見つけたときに、そこに在った。それが記録の仕事だと、私は思っている。
「調査人どの」ザーラント様が言った。「あなたのおっしゃることは、筋が通っております」
「では」
「ですが、追記訂正にも、誤記の証明が要ります」
「……要りますか」
「要ります。誤りである旨を書き足すのですから、誤りであることを示さねばなりません」彼は手を広げた。「わたくしが個人的にあなたを信じるかどうかは、この窓口では意味を持ちません。窓口は、紙しか見ませんので」
*
「一つ、伺ってもよろしいですか」
「どうぞ」
「窓口は紙しか見ない、と仰いました」
「見ません」
「では、紙を作るのは、どなたですか」
ザーラント様は、少し考えた。「……申し立てる方でございます」
「その紙の様式を定めるのは」
「当所でございます」
「様式を満たさぬ紙を返すのも」
「当所でございます」
私は、膝の上で指を組み直した。「紙しか見ない窓口が、その紙の作り方を決めている。……作り方を決める側が、通すか通さぬかも決めておられる」
彼は、初めて少しだけ困った顔をした。「そう並べられますと、意地の悪い仕組みに聞こえますな」
「意地が悪いとは、申しておりません」
「では、何と」
「一人で持ちすぎておられる、と申し上げております」
*
「では、伺い方を変えます」
私は控えの紙を開いた。「十七年前、この窓口で、同じ申し立てが却下されております。申立人、カサンドラ・レインズ」
ザーラント様の手が、書類の上で止まった。一拍だった。一拍だが、この方が止まるのは、これで二度目である。
「……古いお話を、よくお調べで」
「当時の担当者は、どなたでしたか」
彼は答えなかった。眼鏡を外して、布で拭いて、掛け直した。その動作に、十七年前の答えが入っていた。
「わたくしでございます」
*
宿へ戻る道は、来たときより短く感じた。母が負けた窓口に、私は立っている。母を却下した人が、いまその窓口の長になっている。
——観察記録。十七年前の担当者、現・登記所長ザーラント様。
宿の前に、見慣れた黒い馬がいなかった。ギデオン様は、ここ数日、朝早く出て夜に戻られる。どこへ、とは訊いていない。戻られると、何も訊かずに、私の控えの紙の隣にご自分の控えを一枚置いていかれる。……私はまだ一度も、礼を言えていない。言う頃には、この方はもう出ておられる。
私は、この方を憎めない。憎めないことが、いよいよ厄介だった。嘘をつかない相手に、証拠は効かない。
——ならば、嘘をついていないという前提のほうを、検めるほかない。
そう思ったとき、私は初めて、この一件の入口が見えた気がした。
お読みいただきありがとうございます! 消すのではなく、書き足す。第一部で母が記録を「隠して」守ったのに対して、コーデリアは「書き足して」守ろうとします。
次回「制度は、頭を下げません」。証拠を積んでも、受理されない日々が始まります。
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