第45話:母の名は、二度出てくる
誤記の証明、と彼は言った。一年前の秋、王都の広間で何があったか。それを、この国の登記所が受け取れる形の紙にする。やってみて、初めて分かったことがある。
私は、自分の破棄について、証言をひとつも取っていなかった。
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「三百人いたんでしょ、あの広間」ジェミマが言った。「誰か一人くらい」
「三百人おりました」
「じゃあ」
「三百人は、証人ではありません。見物人です」
見ていた人は多い。見ていたことを紙に書いてくれる人は、いない。あの夜、私に不利な話を否定して回る義理のある人間は、この世に一人もいなかった。
カルヴィンの供述はある。台本を渡されたこと、破棄が仕組まれていたこと、王都の裁きで認められている。けれどそこに「不貞はなかった」とは書かれていない。無かったことは、誰も証言しない。無かったことについて、人は口を開かないのだ。
——観察記録。証明すべき事項、無かったこと。証人、なし。物証、なし。……無いことの証明は、いちばん高くつく。
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だから私は、書架へ戻った。登記所の古い綴りには、二百年ぶんの記録がある。誤記の訂正が過去にどう扱われたか、前例を探すためだった。
三日目に、ニコラが手を止めた。「これ、訂正の申し立て。十七年前」
「読んでください」
「『相互登記の理由欄の訂正を求める申し立て、一件。申立人——』」
そこで、この子の声が止まった。
「……読めない。王都の字だ」
私は覗き込んだ。見慣れた字だった。見慣れすぎていて、一瞬、自分の目を疑った。
——カサンドラ・レインズ。
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母の名が、この国の綴りにあった。十七年前。私が四つの年である。
申し立ての内容は、一行だけ控えられていた。
『レインズ伯爵家の相互登記に係る理由欄の訂正を求める。理由——記載の根拠を欠くため』
「あんたの家の?」ジェミマが覗き込んだ。「あんたのお母さんが、十七年前に、同じことを?」
「……いいえ」
私は頁をめくった。「私の家の登記ではありません。母は、レインズ家の名で申し立てをしています。ですが訂正を求めているのは——別の家の頁です」
母は、誰かの代理で来ていた。依頼を受けて、国境を越えて、この登記所の窓口に立っていた。
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結果の欄は、短かった。
『却下』
理由は、書かれていない。
「却下って」ジェミマが顔をしかめた。「理由なし?」
「理由を書く欄が、ございません」
「なにそれ」
「認可されなかった申請は破棄される、とゼルマ様がおっしゃっていました」私は頁を撫でた。「同じです。通らなかった訂正は、通らなかったという一行だけになります」
母は負けたのだ。この国で、十七年前に。私が四つで、母がまだ生きていて、エスメさんと組むのをやめて一人になった、そのころに。
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「あんた、大丈夫?」
ジェミマが、また同じことを訊いた。この二日で三度目である。
「大丈夫です」
「三度目よ、それ」
「数えていましたか」
「数えるわよ。あんたの真似くらいできるもの」
この子は、頁の端を指で押さえた。「あたし、あんたのお母さんに会ったことないけどさ」
「はい」
「四つの子ども置いて、四日かかる国に来たんでしょ。……それ、依頼のためだけ?」
いい問いだった。私は、答えを持っていなかった。
「分かりません」
「分かんないの?」
「分かりません」私は頁を撫でた。「ただ、母は依頼を断らない人だったと、エスメさんが仰っていました。……断らない人だったのか、断れない人だったのかは、書かれておりません」
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宿へ戻って、私は鞄の底から綴りを出した。
卓には、湯気の立つ茶が置いてあった。頼んだ覚えはない。宿の主人に訊くと、「灯りが消えるまでは温かいものを」と、殿下から言い付かっているのだという。……いつから、とは訊かなかった。
十七年前の、連名の綴り。一年前、エスメさんが金庫の奥から出してくれたものだ。『依頼一。』から始まる、母とエスメさんの二人の記録である。
王都で読んだときは、最初の三十件までしか読まなかった。母が一人になってからの記録は、手帳のほうにあると思っていたからだ。
私は、綴りの後ろから読んだ。
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『依頼四十一。国境の向こう。理由欄の訂正。』
その頁は、ほとんど白紙だった。日付と、依頼人の頭文字と、一行だけ。
『通らず。持ち帰るものなし。』
母の字は、いつも詰まっている。この一行だけ、字と字のあいだが空いていた。
そして頁の余白に、日を置いてから書き足したらしい別の筆圧で、こうあった。
『この国の物差しは、血で測る。測る者を替えねば、目盛りは動かぬ。』
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私は、その一行を長いあいだ見ていた。
——観察記録。母の記録、依頼四十一。結果、却下。備考、一行。……この一行を書いたとき、母は何歳だったか。
三十四歳である。いまの私より、十三年上。九年前に亡くなるまで、母はこの頁を破らなかった。負けた記録を、綴りに残したまま持っていた。
「母様」
声に出してから、少し恥ずかしくなった。
「……目盛りを動かす方法は、書いていってくださらなかったのですね」
灯りが揺れた。返事はない。返事のない相手に話しかけるのは、九年ぶりだった。
私は綴りを閉じて、控えの紙を開いた。
——観察記録。十七年前、同じ窓口。同じ却下。当時の担当者を確認すること。
お読みいただきありがとうございます! 母カサンドラは、この国で一度負けています。新しい謎は足しません——一年前に受け取った綴りを、読み直しただけです。
次回「消してください、とは言いません」。コーデリアが登記所に求めるのは、抹消ではありませんでした。
★評価は、次の一話を書く速度に直結いたします。よろしくお願いいたします!




