第43話:あなたの登記も
「王弟殿下のご婚姻には、王家の血統審査がございます」
ザーラント様は、いつもの穏やかさで言った。
「王都の宮内府から、当国の登記所へ照会が参りました。相互登記の写しを求める、と。……手続きでございます。悪意はございません」
「存じております」
「ええ。ですから、お見せしておこうと思いまして」
彼は書架のほうへ歩いた。私は付いていった。ジェミマが後ろから来ようとしたので、目で止めた。なぜ止めたのか、そのときは自分でも分からなかった。
*
書架の三段目。革の背に、王都の家名が金で押してある。
レインズ。
——観察記録。相互登記簿、王都の部。レインズ伯爵家。頁、四葉。
「こちらでございます」
ザーラント様が開いた頁に、私の名があった。
コーデリア・レインズ。
その下に、婚約の記録。相手方、カルヴィン・ブライア。日付、二年前の春。
その下に、破棄の記録。日付、一年前の秋。
そして、その横。王都の登記には無い欄が、一つだけ増えている。
理由の欄。
——不貞につき。
*
五文字だった。
私は、それを三度読んだ。一度目は、読めなかった。二度目は、字として読めた。三度目に、意味が入ってきた。
「……これは」
声が、思ったより普通に出た。普通に出たことのほうが、あとになって気になった。
「破棄の理由でございます」ザーラント様は指で示した。「相互登記には、理由の欄がございます。王都の登記にはございませんが、当国は控えますので」
「王都には、ない」
「ございません。ですから、こちらで書き足します。両国の書式が違いますので、片方に無い欄は、当国の係官が調べて埋めるのでございます」
「調べて」
「はい。……何か、不都合が?」
私は、自分の指が扇の要を握っていることに気づいた。握っていることに気づくまで、少し時間がかかった。そういうことは、あまりない。
「不都合と申しますか」
言葉を選んだ。選ぶ必要のない言葉のはずだった。事実を述べるのに、選ぶことは何もない。
「事実と、違います」
*
——観察記録。
書けなかった。
一年前、あの広間で三分間立っていたときですら、私は数えていた。嘘は三つ、視線は三百人分、口上は三分。数えられたから、立っていられた。
今、目の前にあるのは一行である。
不貞につき。
九文字にもならない。数えるほどのものがない。
「調査人どの」
「……はい」
「顔色が」
「失礼いたしました。書架が少し冷えますね」
ザーラント様は、私の顔を見た。それから、頁に手を置いた。
「訂正をお求めになりますか」
「求めます」
「そうでしょうな」彼は頷いた。「では、誤記の証明をお持ちください。それが手続きでございます」
「誤記の証明、と申しますと」
「その記載が誤りであることを示す紙でございます」ザーラント様は頁を閉じた。「たとえば、婚約破棄の実際の理由を記した公の記録。あるいは、当時の当事者の証言」
「王都の裁きで、破棄が仕組まれたものであったことは認められております」
「では、その写しをお持ちください」
「……そこに、不貞がなかったとは書かれておりません」
「書かれていないものは、示せませんな」
彼は気の毒そうな顔をした。本当に気の毒だと思っている顔だった。
「調査人どの。無かったことを示すのは、いつでもいちばん難しいのでございます。……わたくしどもは、それを日に何十件も受け付けております」
*
宿へ戻る道を、どう歩いたか覚えていない。覚えていないということが、後で怖くなった。私は道順を覚える人間である。四日の馬車旅で、里程標の数まで控えた人間である。
宿の階段で、ジェミマが立ち上がった。「どうだったの」
「……ええ」
「ちょっと。あんた」
「大丈夫です」
「大丈夫な顔じゃないわよ!」
奥からギデオン様が出てきた。私を見て、それから、何も言わずに椅子を引いた。
私は座った。座ってから、扇を開いた。開いた扇の陰で、私はしばらく、何も数えなかった。
*
「不貞、と書いてありました」
言葉にすると、ずいぶん短かった。
ギデオン様の手が、卓の上で一度だけ握られた。それから開いた。
「事実ではない」
「はい」
「王都の登記には無い欄だ。……誰かが、書いた」
「はい」
「一年前だな」
「破棄の翌月です。日付が入っておりました」
ジェミマが息を呑む音がした。この子は数に強くないけれど、日付の意味だけは、いつも先に分かる。
一年前の秋。私が事務所の階段を上がり、エスメさんに履歴書を出し、名刺の裏の走り書きを見た、あのころ。私が調査人になろうとしていたころ、国境の向こうで、誰かが私の頁を開いて、五文字を書き足していた。
「白鳩会は解散した」ギデオン様が低く言った。「オクタヴィアは獄にいる。コルネリウスもだ。人はもう、いない」
「はい」
「だが、記録が残っている」
私は扇を閉じた。
——観察記録。組織、解散済み。関係者、拘束済み。……それでも、一行だけが生きている。
人は裁ける。裁いた人の書いた一行は、どこで裁けばいいのだろう。
お読みいただきありがとうございます! 白鳩会は解散し、人は裁かれました。それでも一行だけが、国境の向こうで生き残っていました。第二部でいちばん深い谷です。
次回「誰が書いたか」。一年前、この五文字を書いたのは誰の手なのかを調べます。
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