第39話:通してほしい、という依頼
エスメさんの返事が届いたのは、八日目の朝だった。分厚い封書で、半分は事務所の帳簿の話だった。前金の入りと、新しい依頼の件数と、ジェミマの部屋を片づけたという苦情。
最後の一枚だけ、字が大きくなっていた。
『縁談が認可制の国。あんたには向いてる国だね。うちは前金制だよ。ただし真実は値引きしない。……通す仕事も、真実のうちだろうさ』
私は、その一行を二度読んだ。まだ何も相談していない。相談していないことに、この人はいつも先に返事をよこす。
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マティルデ様は、月に二度、施薬院へ行かれる。九日目が、その日だった。
私は施薬院の向かいの角に立った。尾けたのではない。門から入る人を数えていただけである——と、控えておく。
昼過ぎ、白い上っ張りの人が、裏口から手袋を持って出てきた。洗って、干して、畳んだものだ。親指の付け根から絞る癖がついていた。
「——失礼。あなたが、その手袋を洗っておいでですか」
その人は驚いて、それから、隠さなかった。
「洗いました。薬を扱う手ですので、洗い方だけは自信があります」
年は二十半ばだろうか。手の甲に古い薬傷。上っ張りの襟が三度繕われている。ゼルマ様の袖口と、同じ繕い方だった。この国の人は、物を捨てない。
「ティルマンと申します。ここの医師です」
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「認可は、出していません」
彼は最初にそう言った。訊く前に言われたので、私は少し面食らった。
「出せば、断られます。断られた申請は破棄されて、『不認可一件』の行だけが残ります。……その一行が、あの方の履歴に付きます」
「ですから、出さずにいらした」
「はい。三年」
「三年」
「三年です」ティルマンは籠の縁を握った。「あの方が縁談をお受けになると聞いたとき、正直、ほっとしました。……その次の日に、自分を殴りたくなりましたが」
——観察記録。医師ティルマン。手、薬傷。上っ張り、三度の繕い。……この方は、諦めることに慣れていて、諦め方が下手だ。
「ひとつ伺います。あなたは、認可が下りるなら、お受けになりますか」
「下りません」
「下りるなら、と申し上げました」
彼は黙った。長い沈黙だった。私はその間に、施薬院の門を出入りする人を十四人数えた。貴族の馬車は、やはり一台も来なかった。
「……受けます」
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その夜、大公家の物置で、グレーテルさんに会った。
「お嬢様に、お伝えいただきたいことがあります」
「なんでございましょう」
「調査人は、依頼がなければ動きません」私は言った。「ですから、ご依頼をいただきたいのです。——マティルデ様ご本人から」
グレーテルさんは首を振った。
「お嬢様は、おっしゃいません」
「壊してくださいとは、おっしゃらないでしょう」
「では、何を」
「通してください、と」
彼女は、私を見た。
「……そのようなご依頼が、あるのですか」
「ありません」私は正直に答えた。「十八件受けてまいりましたが、一度も。私の仕事は、縁を検めて、駄目なものを止めることでした」
「では」
「ですから、初めての型になります。初めての型は、値の付け方が分かりません」私は扇を閉じた。「所長に訊きましたら、通す仕事も真実のうちだ、と返ってまいりました。……前金は、いただきます」
*
マティルデ様が私の前に来たのは、翌朝だった。背筋は伸びていた。手袋はしていなかった。
「調査人どの」
「はい」
「わたくしの縁談を、通していただきたいのです」
声が、少しだけ震えていた。震えたまま、最後まで言い切った。手本には無い言い方だった。
私は依頼書を出した。依頼人の欄は、五文字ぶんの幅しかない。
「ご自分の手で、お書きください。——書き順まで、ご自分のもので」
マティルデ様はペンを取って、止まった。一年前、私も同じ欄の前で止まったことがある。他人の名なら何百と書いてきた欄だった。自分の名だけが書けなかった。
「わたくしは、九年、選ばぬように育てられました」
「存じております」
「選び方を、教わっておりません」
「ご依頼の書き方でしたら、お教えできます」私は欄を指した。「お名前を、そこへ。……選ぶというのは、たいてい、それだけのことでございます」
ペン先が下りた。『マティルデ・アイヒェン』——傾き、右上がり十度。
*
依頼を受けたその日の午後、登記所へ行った。要件を確かめるためである。窓口の係官は、条文の綴りを開いて、指でなぞりながら読み上げた。
「婚姻の認可は、両家いずれについても、三代の登記を有する場合に限り、これを与える」
「三代」
「はい。父、祖父、曾祖父。三代とも、この登記所に名がある家でございます」
私は控えの紙に書き取った。ティルマンには、一代しかない。父は登記されていない。祖父の名など、聞いたこともないだろう。
「例外は」
「ございません」
「不服の申し立ては」
「できます。ただし、認可を与える権限は、所長にございますので」
——観察記録。要件、三代。例外、なし。判断、所長。
三代。
その数字を、私はしばらく眺めていた。数字というのは、たいてい誰かが決めたものである。決めた人がいるということは、決めた日があるということだ。
お読みいただきありがとうございます! 十八件目にして初めての「通してほしい」。壊す仕事しかしてこなかった調査人が、逆を向く回でした。
次回「血の物差し」。三代という数字を、誰がいつ決めたのか——条文を読みにまいります。
★評価は、次の一話を書く速度に直結いたします。よろしくお願いいたします!




