第38話:ジェミマ、書き写す
「盗ってこようか」
その一言が出るまでに、五日かかった。ジェミマにしては長く保ったほうだと思う。この子は困ると手が先に動く。動かずに五日粘ったのは、たぶん、王都を出るとき私が何も言わなかったからだ。
「盗ってきて、どうしますか」
「読めない綴りを、あんたに渡す」
「私も読めません」
「……そうだった」
ジェミマは寝台に倒れて、天井へ向かって喋りだした。「なんなのよ、この国。字は読めない、綴りは出せない、役所は開かない。あたし、指しか取り柄がないのに、その指の使い道がないじゃない」
「ありますよ」
「どこに」
「写すのに使えます」
*
登記所の綴りは、持ち出せない。閲覧の申請が通れば、席で読むことはできる。書き写しも、係官の目の前でなら許される。つまり、盗む必要はもともとない。要るのは、読めない文字を形のまま持ち帰る手だけだ。
「形だけ写して、意味ないでしょ」
「意味は、あとから付きます」私は紙を並べた。「ニコラに読ませればよろしい。読める子が、写した紙のところまで来られないだけです」
ジェミマは紙を睨んだ。睨んだまま、指で紙の端を折ったり伸ばしたりしていた。
「……あたしが写して、ニコラが読む」
「はい」
「あんたは?」
「並べます」
*
三日、写した。
閲覧の席は硬い椅子で、係官は一刻ごとに咳払いをした。ジェミマは背を丸めて、線の向きを一本ずつ追った。この子の写す字は、最初の日は絵だった。二日目に文字らしくなった。三日目には、崩れ方が揃った。
揃った崩れは、読める。
「これ、なんか変」四日目の朝、ジェミマが手を止めた。「同じ形が、何度も出てくるんだけど。二つ並びで」
私は写しを見た。二文字の並びが、頁の右上に繰り返し現れている。
「ニコラ。これは」
呼ぶと、廊下で待っていた子が顔を出した。閲覧の席には座らせてもらえないので、この子はいつも扉の外にいる。
「『相互』」ニコラは即答した。「相互登記。よその国の婚姻を、こっちの登記所にも写す決まり」
「よその国の、婚姻を」
「うん。貴族だけ。国を跨いだ縁組があるから、両方の登記所で同じことを控える」
ニコラは指で頁をなぞった。「これ、王都の分。だから王都の家名が出てくる」
「ニコラ」ジェミマが顔を上げた。「あんた、なんでそんな細かいこと知ってんの」
ニコラは少し黙ってから、答えた。
「母さんが、三回通ったから。届けが通らなくて。三回目に係の人が言った、『相互登記のほうにも記録が要る』って」
「……で?」
「要らなかった。要るって言われただけ」
ニコラは頁から手を離した。「係の人が悪いんじゃない。あの人も、上から言われたことを言っただけ。……たぶん」
ジェミマは何か言おうとして、やめて、この子の頭に手を置いた。手癖の悪い指が、今日はただ載っているだけだった。
*
——ブライア侯爵家。
写しの三枚目に、その家名があった。領地返上。当主更迭。婚姻記録の抹消手続き、係属中。
一年前まで、私はその家に嫁ぐはずだった。
「……あんた」ジェミマが声を落とした。「大丈夫?」
「はい」
「顔、動いてないけど」
「動かす必要がありませんので」
嘘ではなかった。あの家の名を見て、いま私の中に起きたのは、痛みではなく確認だった。帳面が合っている、という種類の確認である。痛みは一年前に済ませた。済ませていないものだけが、あとから利息をつけて戻ってくる。
「ざまあみろって、思わないの」
「思いました」私は写しを置いた。「一年前に、たっぷり」
「今は?」
「今は、抹消の手続きが係属中なのだな、と思っております」
ジェミマは呆れた顔をして、それから少し笑った。「あんたのそういうとこ、あたし嫌いじゃないわ」
「褒めていますか」
「褒めてる」この子は筆を持ち直した。「じゃ、続き写すわ」
「はい」
「あのさ」
「はい」
「あたし、盗らなかったでしょ」
「盗りませんでしたね」
「褒めなさいよ」
「よくできました」
「棒読みじゃないの!」
ジェミマは筆を投げる真似をして、投げずに、また写し始めた。耳が赤かったのは、たぶん椅子が硬かったせいだ。そう控えておく。
*
その晩、宿の卓で写しを並べた。
——観察記録。相互登記。国を跨いだ縁組のため、両国の登記所が同じ記録を控える。対象、貴族の婚姻。
つまり、この国の書架には、王都の家の婚姻が写されている。結ばれた婚姻だけではない。壊れた婚姻も、抹消の手続きも、係属中の一件も、全部だ。
「どうした」
ギデオン様が、灯りの向こうから言った。
「いえ。ずいぶん行き届いた制度だと思いまして」
「行き届きすぎだ。俺は好かん」
「なぜですか」
「記録は、書く者の手を離れる」彼は写しを一枚取った。「王都で書いた一行が、四日先の国で読まれる。書いた者はもう覚えていない。読む者は、それを事実として扱う」
私はうなずいて、写しを揃えた。
そのときはまだ、自分の名がその書架のどこにあるのかを、考えていなかった。
お読みいただきありがとうございます! 盗る腕ではなく写す手で仕事をする——ジェミマが王都から持ってきたものが、この国で形を変えて役に立つ回でした。
次回「通してほしい、という依頼」。縁を壊す仕事しかしてこなかった調査人に、初めて逆向きの依頼が来ます。
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