第37話:花嫁教育の部屋
花嫁教育の部屋は、南向きだった。窓が大きく、光がよく入る。壁際に姿見が三枚。卓の上に、茶器と、菓子と、白い手袋が畳んで置かれている。
いい部屋だ、と思った。牢屋のような部屋を想像していた自分が、少し恥ずかしくなるくらいには。
「どうぞ、お掛けくださいまし」
女官長ゼルマ様は、六十に近いだろうか。背が低く、手が大きい。長く針を持ってきた人の手だ。
——観察記録。女官長ゼルマ様。姿勢、静止。声、低め。茶を注ぐ手、揺れなし。……敵意、検出できず。
「お嬢様のご縁談のこと、ようございました」
「ようございましたか」
「ええ。あのような方と結ばれずに済んだのですから」ゼルマ様は茶を差し出した。「お手柄でございます」
嘘ではなかった。声にも、目にも、皮肉の欠片がない。私はこの一年で、善意の顔をした人を一人だけ知っている。あの方の善意は仮面だった。仮面はいつか外れる。外れるから、割ることができた。
この人は、外れそうにない。
*
「マティルデ様のご教育は、いつからですか」
「十二の年から。九年になります」
「何をお教えになるのですか」
「所作、言葉、書き方、家の帳面の読み方。それから——」ゼルマ様は少し考えた。「——選ばぬこと、でございましょうか」
「選ばぬこと」
「はい。大公家の姫君に、お選びになる権利はございません。選ぶのは登記所でございます」
言い方が、あまりに穏やかだった。
「残酷だと、お思いですか」
「思います」
「わたくしもそう思っておりました。四十年前には」
彼女は自分の茶に口をつけた。四十年前、と口にしたときだけ、声の位置が半分下がった。
「わたくしは針子の娘でございます。この城で、身分の違う殿方と縁を結ぼうとした娘を、三人見送りました。三人とも認可が下りず、三人ともお城を出ました。……出たあと、どうなったかまでは、存じません」
「存じない、というのは」
「知らせが来ないのでございます。届けの通らぬ婚姻は、記録に残りませんから」
ゼルマ様は茶器を置いた。置く音がしなかったのは、置き方を四十年練習した人だからだろう。
「一人目は、パン屋の次男と。二人目は、町の薬師と。三人目は——名も申し上げられません。認可が下りませんでしたので、相手の名を控えた紙が、そもそも作られなかったのでございます」
「名を、控えないのですか」
「認可されなかった申請は、破棄されます。残るのは『申請一件、不認可』の一行だけ」
窓の下を、荷車が通っていった。車輪の音が遠ざかるまで、どちらも口を開かなかった。
「三人とも、お城の門を出るときは笑っておいででした。愛があれば、と。……四十年経ちましたが、三人のうちどなたからも、便りは参りません。便りを出す先が、記録にございませんので」
窓の光が、卓の上の白い手袋を照らしていた。
「わたくしがお嬢様に教えておりますのは、記録に残る生き方でございます」ゼルマ様は静かに言った。「残らぬ縁を選べば、その方は居なかったことになります。……そういう国でございますので」
*
私は茶を置いた。ここから先は、依頼の外である。外だと分かって訊くのは、あまり褒められた作法ではない。
「ゼルマ様。仮に——マティルデ様に、認可の下りないお相手がいらしたとしたら」
彼女の手が、初めて止まった。一拍だけだった。
「認可の取れない縁は、縁ではございません」
「制度がそう決めている、と」
「制度がそう決めております」
それきりだった。声は荒れず、目も逸れなかった。彼女は自分の言ったことを、四十年かけて本当だと思うようになった人の顔をしていた。
——観察記録。反駁なし。動揺、一拍。……この方は、嘘をついていない。
厄介だ、と私は思った。嘘をつく相手なら、私は勝てる。嘘をつかない相手には、証拠が効かない。証拠というのは「言ったことと、あったこと」の差を示すものだ。差がなければ、何を並べても紙のままである。
*
部屋を出るとき、ゼルマ様が呼び止めた。
「調査人どの」
「はい」
「お嬢様のことを、あまり掘らないでくださいまし」
「なぜでしょう」
「掘れば、出てまいります。出たものは、記録されます」彼女は畳まれた手袋を撫でた。「記録されたものは、消えません。……お嬢様を守りたいのなら、掘らぬのがいちばんでございます」
正しかった。正しくて、私は少し腹が立った。腹が立った理由が分かるまでに、廊下を半分歩いた。
この方は、記録を「傷が残るもの」として扱っている。私は、記録を「守るもの」として教わった。母がそう書いていた。娘へ、と。
同じ帳面を、二人はまるで違う道具だと思っている。
*
中庭で、ジェミマが石段に座っていた。
「どうだった。悪い婆さんだった?」
「いいえ」
「じゃ、いい婆さん?」
「それも、いいえ」私は隣に腰を下ろした。「四十年、正しいことを言い続けてこられた方です」
「なにそれ。いちばん厄介じゃない」
「厄介です」
ジェミマは足を揺らした。それから、思い出したように紙を差し出した。この子が写した文字の束である。端が丸くなっているのは、寝るときも枕元に置いているからだ。
「ねえ。これ、あんたに見せたいのがあるんだけど」
「読めるようになりましたか」
「ぜんぜん。でも、形なら写せる」ジェミマは束の三枚目を指した。「これ、綴りの背に書いてあったやつ。ニコラが『王都の家名だ』って言ってた」
その形に、私は見覚えがあった。写しの線は崩れていたけれど、崩れ方が揃っていたので、読めた。
——ブライア。
お読みいただきありがとうございます! 嘘をつかない相手には、証拠が効きません。ゼルマ女官長は本作で唯一「本当に善意の」壁として書いています。
次回「ジェミマ、書き写す」。読めない文字を前に、この子は盗む以外のやり方を選びます。
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