第36話:依頼人は侍女でした
洗い場の隣に、小さな物置があった。樽と箒と、干した薬草の束。グレーテルさんはそこに私を通して、扉を半分閉めた。半分だけなのは、閉め切ると人が来たとき言い訳が立たないからだろう。この人は、隠れることに慣れている。
「三年、お仕えしております」
「マティルデ様に」
「はい。お輿入れまでのお付きとして」
——観察記録。侍女グレーテル。二十歳前後。袖口、二度の繕い。爪、短く切り揃え。指の腹に、インクの染み。
インクの染みは、侍女の仕事では付かない。
「字を書かれるのですね」
彼女は袖を引いた。染みは第二関節の内側にもある。長く書いた手にしか付かない場所だった。
「……お嬢様の代筆を。手が腱鞘炎を起こされたときに、練習いたしました」
「では、書き順まで真似られなかったのは、練習が足りなかったからではありませんね」
「え」
「急いで書かれたのでしょう。あの依頼書だけは」
グレーテルさんは、樽の縁に手をついた。否定はしなかった。否定の言葉を持っている人は、まず一度は口にしてみるものである。
*
「一年前から、お嬢様のご様子が変わりました」
彼女の話は、そこから始まった。
「よくお笑いになるようになって、朝のお支度が早くなって。……それから急に、メルヒオール様とのご縁談を、ご自分からお受けになりました」
「順序が逆ですね」
「はい」
人は、幸福になってから縁談を受けるのではない。幸福を隠すために縁談を受けることが、ある。
「マティルデ様は、どなたかと逢っておられたのですね」
「……存じません」
「知らないのに、依頼書を書かれたのですか」
グレーテルさんは唇を噛んだ。「本当に、存じないのです。お嬢様は何もおっしゃいません。ただ——月に二度、施薬院へお出かけになります。慰問という名目で。慰問の日は、お帰りが三刻遅くなります」
「三刻」
「その日だけ、手袋を替えてお帰りになります」
私は、扇の要を握った。行きと帰りで手袋が違うということは、行きの手袋を汚したということだ。慰問で手袋を汚す令嬢は珍しくない。珍しいのは、汚した手袋を持ち帰らずに済ませていることのほうである。
誰かが、洗って返してくれているのだ。
*
「あなたは、なぜ依頼を出されたのですか」
薬草の匂いのなかで、この人はしばらく答えなかった。
「お嬢様が、幸せそうでなくなったからです」
「ご縁談のせいだと思われた」
「思いました。……あのご縁談さえ壊れれば、お嬢様は元に戻られると」グレーテルさんは、両手を膝の上で握った。「けれど昨日、壊れました。それでもお嬢様は、元に戻られません」
「はい。戻られないでしょう」
「なぜですか」
「あのご縁談は、鎖ではなく蓋だったからです」
彼女は顔を上げた。蓋、という言葉に心当たりのある顔だった。
「蓋を外しても、下にあるものは片づきません。むしろ、見えるところに出てまいります」私は控えの紙をひらいた。「マティルデ様が失ったのは自由ではなく、隠れ場所です。だから『自由になれません』とおっしゃった」
グレーテルさんは、しばらく黙っていた。それから、ずいぶん小さな声で言った。
「わたくしは、余計なことを」
「いいえ」
「けれど」
「あなたが依頼書を書かなければ、私はこの国に来ておりません」私は紙を閉じた。「蓋は、いずれ誰かが外します。外れたときに調査人がそばにいるかどうかは、大きな違いです」
*
その日の午後、私はマティルデ様にお目にかかった。依頼の話はしなかった。帰国のご挨拶という名目で、茶を一杯いただいただけである。
——観察記録。大公令嬢マティルデ様。手袋、新品。ただし右の親指の付け根に、洗いの癖。
新品の手袋に、洗った跡がある。仕立て下ろしを洗う人はいない。つまりこれは新品ではなく、新品のように手入れをされた手袋だ。洗いの癖は、洗う人の手つきによって決まる。親指の付け根から絞る癖は、布を傷めないやり方だった。侍女の洗い方ではない。薬品を扱う者の洗い方である。
「王都では」私は世間話の顔で言った。「手袋は、汚したら替えるものと教わりました」
「こちらでは、洗って使いますわ」
「洗い上がりが、たいそうお上手ですね」
マティルデ様は、茶器を持ったまま、二拍だけ動かなかった。
「……侍女が、丁寧なものですから」
グレーテルさんは、爪を短く切り揃えている。あの指では、こういう絞り方はできない。私はそれを申し上げなかった。申し上げれば、この方は正しくお答えになる。正しい答えは、たいてい何も進めない。
*
物置を出たところで、ギデオン様が壁に凭れていた。
「聞いていらしたのですか」
「見張っていた。侍女が一人で罪をかぶる形になれば、面倒だからな」
「殿下は、こういうときだけお優しいのですね」
「こういうときだけだ」
私たちは中庭を歩いた。樫の木が三本、等間隔に植わっている。この国は木の間隔まで測る。
「受けるのか」ギデオン様が言った。「依頼としては、もう終わっている」
「終わっております」
「では、なぜ帰らん」
「依頼書に署名した人が、まだ息を吐いておりませんので」
彼は歩を止めた。それから、小さく息を吐いた。
「……君は、依頼人の呼吸を数える調査人か」
「泣かない代わりに数えるものが、増えました」
*
その日の夕方、施薬院の前を通った。石造りの、飾りのない建物だった。窓から白い上っ張りの人影が見える。順番を待つ列に、貴族の馬車は一台もない。
——観察記録。施薬院。慰問の記録、月に二度。手袋、行きと帰りで別。……洗って返す者が、いる。
ジェミマが横で背伸びをして、窓の高さを測ろうとして、届かずにやめた。「あんた、もう見当ついてるんでしょ」
「見当だけです」
「言いなさいよ」
「言えば、それが答えになってしまいます」私は歩き出した。「調査人は、見当を証拠より先に口にしてはいけません。——見当は、たいてい当たるからです」
お読みいただきありがとうございます! 依頼人が入れ替わる回でした。壊れた縁談が鎖ではなく蓋だったなら、外したあとに出てくるものがあります。
次回「花嫁教育の部屋」。この国で「血に見合わぬ縁」を潰してきたのは、悪人ではありませんでした。
ブックマークと★で、この物語の背中を押していただけますと幸いです。




