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婚約破棄された令嬢、縁談調査人はじめました 〜あなたの婚約者の裏の顔、お調べします〜  作者: 藤宮レイ


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第35話:依頼の続きがあります

帰りの馬車の手配は、翌朝には済んでいた。


依頼は完了した。報酬は前金で受け取っている。取り下げの手続きは大公家が進め、三家の令嬢には登記所から通知が行く。私たちの仕事は、ここで終わりのはずだった。


「四日で帰れるわね」ジェミマが荷を縛りながら言った。「あんた、荷造りしてないけど」


「していません」


「なんで」


「終わっていないからです」


この子は縄を持ったまま、私を見た。それから、縄を置いた。置いてから、荷のほうを蹴らずに、そっと壁へ寄せた。


*


——観察記録。依頼完了後、依頼人の反応。


一、報告中、抗弁なし。

二、報告後、礼あり。声、平静。

三、「これで、わたくしは自由になれません」。

四、直後、口を押さえる。


四番目が、残っている。人は、思っていないことは言えない。とっさに出た一文は、たいてい本人がいちばん長く抱えていた一文だ。マティルデ様は、婚約が壊れたことで「自由になれない」と言った。


婚約が壊れて自由を失う人間は、そう多くない。


——縛られていたのは、婚約ではなく、婚約の役目のほうだ。


そう考えると、辻褄が合う。あの縁談は、彼女にとって鎖ではなく、蓋だったのではないか。蓋は、下に何かがあるから掛ける。


*


私は依頼書を取り出した。大公家から届いた依頼状ではなく、受任のときに書いていただいた依頼書のほうだ。依頼人の署名がある。


——観察記録。依頼書、署名欄。「マティルデ・アイヒェン」。筆圧、均一。傾き、右上がり四度。


そして、大公家からいただいた婚約の記録の写しを、隣に置いた。同じ名の署名がある。


——傾き、右上がり十度。


同じ人が同じ名を書いて、傾きが六度も違うことはある。急いだとき、寒いとき、手が疲れているとき。だから傾きだけでは、何も言えない。言えるのは、次だった。


「ジェミマ。この二つ、どこが違いますか」


この子は二枚を持ち上げて、灯りに透かした。


「……『デ』の点の打ち方。こっちは先に点、こっちは先に横棒」


「順序が違うのですね」


「うん。癖よ、これ。人は書き順は変えないもの」


そう。文字の形は真似られる。順序は、真似た本人が意識しないところに出る。


「あんた、これ——」


「依頼書の署名は、マティルデ様の手ではありません」


*


翌朝、私は大公家へ戻った。応接間ではなく、厨房と洗い場のあいだの廊下へ回った。マティルデ様に会いに行ったのではない。


「グレーテルさん」


呼びかけると、洗い場から出てきた侍女が、盆を落としかけた。二十歳前後、袖口が二度繕われている。


「……お帰りではないのですか」


「依頼の続きがございますので」


彼女は答えなかった。私は依頼書を出した。


「この署名を書かれたのは、あなたですね」


盆が、床に落ちた。


*


彼女は震えていたが、逃げなかった。逃げる人は、まず扉のほうを見る。この人は一度も洗い場のほうを見なかった。それが答えのようなものだった。


「首になります」


「なるかもしれません」


「……そこは、慰めてくださらないのですね」


「慰めても、事実が変わりませんので」私は落ちた盆を拾って渡した。「代わりに、二つだけ申し上げます。一つ。私は雇い主ではありませんので、あなたを罰する権限がありません」


「……二つ目は」


「私はまだ、この依頼を完了として控えておりません」


グレーテルさんは、渡した盆を受け取らなかった。両手が塞がっていると思ったのだろう。両手は、空いていた。


「あの」


「はい」


「……なぜ、お嬢様にお訊きにならないのですか」


いい問いだった。答えを持っている相手に直接訊く。それが早い。


「訊けば、お答えになるからです」私は言った。「マティルデ様は、訊かれたことには全部お答えになります。手本どおりに、正しく。……訊かれなかったことは、一生おっしゃいません」


彼女の目が、少しだけ動いた。


「あなたは、それをご存じだった。ご存じだったから、依頼書を代わりに書かれたのですね」


グレーテルさんは、盆を胸に抱えた。指の関節が白くなっていた。


「お嬢様は」と、彼女は言った。「壊してくださいとは、絶対におっしゃいません。……一生、おっしゃいません」


「ですから、あなたが代わりに書いたのですね」


「はい」


廊下の奥で、鐘が鳴った。朝六つに二打——登記所が開く合図である。その音を聞いたとき、グレーテルさんの肩が、はっきりと強張った。


——観察記録。合図に対する反応。鐘、二打。侍女の肩、緊張。


この人が怖れているのは、主人の縁談ではない。あの書架のほうだ。


「グレーテルさん」


「はい」


「あなたのご依頼を、あらためて伺います。——あなたは、私に何を調べてほしかったのですか」


彼女は長いあいだ黙って、それから、ようやく息を吐いた。


依頼人が最初に息を吐くまで、四日かかった。

お読みいただきありがとうございます! 依頼は完了したのに、依頼人だけが救われていない——その違和感を、署名の書き順ひとつから開けました。文字の形は真似られても、書く順序は真似られません。


次回から第六章。本当の依頼人は侍女のグレーテル、そして本当の依頼は「壊してくれ」ではありませんでした。コーデリアの仕事が、初めて逆を向きます。


感想も評価も、ありがたく読んでおります。よろしくお願いいたします!

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