第32話:物差しが違います
メルテンの朝は、鐘の数が違った。
王都の鐘は時を告げる。この国の鐘は、時のあとに二つ、短く打つ。何の合図かと宿の主人に尋ねたら、登記所が開く合図だという答えが返ってきた。
「役所が開く時刻を、国じゅうの鐘で知らせるのですか」
「知らせませんと、皆が困りますでしょう」
主人は当たり前の顔をしていた。困るのだ、この国では。縁談も、相続も、家名の継ぎ方も、あの書架の前に列を作らなければ始まらない。
——観察記録。メルテン大公国、三日目。鐘、朝六つに二打。役所の開扉を国じゅうへ報せる国。……縁談が「認可されるもの」である理由が、鐘の打ち方に出ている。
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躓いたのは、その日の午前だけで四度あった。
一度目は挨拶。王都では初対面の淑女に扇を半分開いて会釈する。この国で同じことをしたら、相手が硬直した。あとで聞けば、扇を半分開くのは「話を聞く気がない」の意である。
二度目は書式。閲覧の申請書に用件を書いたら突き返された。用件の欄ではなく、根拠の条文を書く欄だったのだ。
三度目は言葉。「婚約」にあたる言葉が二つある。認可前の婚約と、認可後の婚約。同じ字で読みが違う。
四度目は——数字だった。この国では、日付を月から書かずに、日から書く。
「あんた、四回とも顔に出てないのが逆に怖いんだけど」
昼、宿の階段で、ジェミマが半分呆れた顔をした。
「出しても直りませんので」
「そりゃそうだけど」
「それに、四度躓いたということは、四つ覚えたということです」私は控えの紙をひらいた。「扇、書式、言葉、日付。……ここまでは、まだ作法の話です」
「まだ?」
「作法は覚えれば済みます。困るのは、覚えても読めないものですね」
ジェミマの手が止まった。
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この国の文字は、王都のものと形が違う。似ている字はある。似ているせいで、余計に読めない。ジェミマは宿の壁の掲示を紙に写しては、線の向きを取り違えて、破って、また写していた。
七つから覚え始めた王都の文字を、この子はもう半分がた自分のものにしていた。それが国境ひとつで、また振り出しに戻ったのだ。
「……あたし、ここじゃ役立たずね」
「なぜですか」
「読めないんだもの。読めない調査人なんて、目のない鳥みたいなもんでしょ」
「では、目のない鳥に一つ伺います」私は窓の外を指した。「向かいの八百屋の主人は、今朝から三度、同じ路地を覗いています。なぜでしょう」
ジェミマは反射で窓を見た。それから、しばらく黙って、言った。
「……荷が来ないのよ。三度覗いてるのは、来ないのがわかってて、それでも待ってるから。……あと、あの人、右の袖だけ濡れてる。井戸まで自分で汲みに行ってる。人手が足りてない」
「文字は、いくつ使いましたか」
この子は口を開けて、閉じた。
「ずるいわよ、あんた」
「観察に国境はありません」私は控えの紙を畳んだ。「文字のほうは、私も読めません。一緒に覚えるほかありませんね」
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その八百屋の路地で、ニコラに会った。十かそこらの子どもで、荷車の下から半分だけ顔を出していた。ジェミマが小銭を握らせようとしたら、受け取らずに首を振った。
「銭はいらない。仕事なら受ける」
「生意気ねえ」ジェミマは嬉しそうだった。「じゃ、仕事。この字、なんて読むの」
ニコラは掲示を一瞥して、答えた。
「『認可の下りていない縁組の届け出は受理しない』」
言い終えてから、付け足した。
「うちの母さんも、それで届けが通らなかった」
ジェミマが何か言おうとして、やめた。この子はときどき、こういうときだけ口が重い。
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午後、メルヒオール様に会った。辺境伯家のご子息。長身で、姿勢がよく、こちらが名乗る前に立ち上がって椅子を引いた。話題の選び方が上手い。マティルデ様の話をするとき、必ず一度、彼女の名で呼ぶ。
——観察記録。メルヒオール様。応対、模範。婚約者の呼び方、名。手袋、新品。靴、新品。時計の鎖、新品。……新しいものが、三つ。
非の打ち所がない、という言葉を、マティルデ様は使った。会ってみて、私も同じ言葉を使いたくなった。
だから、私はその言葉を疑うことにした。嘘をつく人は、必ずどこかで帳尻を合わせる。合わせた跡が、その人の「非の打ち所のなさ」として表に出ることがある。完璧というのは、たいてい、何かを均した結果だ。
「認可はもうお取りになったのですか」と、世間話の顔で訊いた。
「ええ。昨年の秋に」
「早いのですね」
「備えあれば、というものです」メルヒオール様は感じよく笑った。「認可には時間がかかりますから」
私は微笑んで、扇を全部開いた。この国では、それが「話を聞いています」の意になる。
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宿へ戻って、控えの紙を並べた。大公家からいただいた婚約の記録、日付はこの春。メルヒオール様の口ぶりでは、認可は昨年の秋。
——観察記録。認可、昨秋。婚約、今春。
順番が、逆である。
この国では、認可がなければ婚約は結べない。ならば認可が先にあるのは、当たり前だ。当たり前のはずだった。ただ、認可の申請には相手の名を書く欄がある。
婚約より半年も前に、彼は誰の名を書いて、その紙を出したのだろう。
お読みいただきありがとうございます! 異国の作法にはいくらでも躓けますが、観察だけは国境を越えて通用します。ジェミマの稽古が振り出しに戻る回でもありました。
次回「認可は、婚約より早い」。半年ぶんの空白に、何が書かれていたのか。
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