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婚約破棄された令嬢、縁談調査人はじめました 〜あなたの婚約者の裏の顔、お調べします〜  作者: 藤宮レイ


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第32話:物差しが違います

メルテンの朝は、鐘の数が違った。


王都の鐘は時を告げる。この国の鐘は、時のあとに二つ、短く打つ。何の合図かと宿の主人に尋ねたら、登記所が開く合図だという答えが返ってきた。


「役所が開く時刻を、国じゅうの鐘で知らせるのですか」


「知らせませんと、皆が困りますでしょう」


主人は当たり前の顔をしていた。困るのだ、この国では。縁談も、相続も、家名の継ぎ方も、あの書架の前に列を作らなければ始まらない。


——観察記録。メルテン大公国、三日目。鐘、朝六つに二打。役所の開扉を国じゅうへ報せる国。……縁談が「認可されるもの」である理由が、鐘の打ち方に出ている。


*


躓いたのは、その日の午前だけで四度あった。


一度目は挨拶。王都では初対面の淑女に扇を半分開いて会釈する。この国で同じことをしたら、相手が硬直した。あとで聞けば、扇を半分開くのは「話を聞く気がない」の意である。


二度目は書式。閲覧の申請書に用件を書いたら突き返された。用件の欄ではなく、根拠の条文を書く欄だったのだ。


三度目は言葉。「婚約」にあたる言葉が二つある。認可前の婚約と、認可後の婚約。同じ字で読みが違う。


四度目は——数字だった。この国では、日付を月から書かずに、日から書く。


「あんた、四回とも顔に出てないのが逆に怖いんだけど」


昼、宿の階段で、ジェミマが半分呆れた顔をした。


「出しても直りませんので」


「そりゃそうだけど」


「それに、四度躓いたということは、四つ覚えたということです」私は控えの紙をひらいた。「扇、書式、言葉、日付。……ここまでは、まだ作法の話です」


「まだ?」


「作法は覚えれば済みます。困るのは、覚えても読めないものですね」


ジェミマの手が止まった。


*


この国の文字は、王都のものと形が違う。似ている字はある。似ているせいで、余計に読めない。ジェミマは宿の壁の掲示を紙に写しては、線の向きを取り違えて、破って、また写していた。


七つから覚え始めた王都の文字を、この子はもう半分がた自分のものにしていた。それが国境ひとつで、また振り出しに戻ったのだ。


「……あたし、ここじゃ役立たずね」


「なぜですか」


「読めないんだもの。読めない調査人なんて、目のない鳥みたいなもんでしょ」


「では、目のない鳥に一つ伺います」私は窓の外を指した。「向かいの八百屋の主人は、今朝から三度、同じ路地を覗いています。なぜでしょう」


ジェミマは反射で窓を見た。それから、しばらく黙って、言った。


「……荷が来ないのよ。三度覗いてるのは、来ないのがわかってて、それでも待ってるから。……あと、あの人、右の袖だけ濡れてる。井戸まで自分で汲みに行ってる。人手が足りてない」


「文字は、いくつ使いましたか」


この子は口を開けて、閉じた。


「ずるいわよ、あんた」


「観察に国境はありません」私は控えの紙を畳んだ。「文字のほうは、私も読めません。一緒に覚えるほかありませんね」


*


その八百屋の路地で、ニコラに会った。十かそこらの子どもで、荷車の下から半分だけ顔を出していた。ジェミマが小銭を握らせようとしたら、受け取らずに首を振った。


「銭はいらない。仕事なら受ける」


「生意気ねえ」ジェミマは嬉しそうだった。「じゃ、仕事。この字、なんて読むの」


ニコラは掲示を一瞥して、答えた。


「『認可の下りていない縁組の届け出は受理しない』」


言い終えてから、付け足した。


「うちの母さんも、それで届けが通らなかった」


ジェミマが何か言おうとして、やめた。この子はときどき、こういうときだけ口が重い。


*


午後、メルヒオール様に会った。辺境伯家のご子息。長身で、姿勢がよく、こちらが名乗る前に立ち上がって椅子を引いた。話題の選び方が上手い。マティルデ様の話をするとき、必ず一度、彼女の名で呼ぶ。


——観察記録。メルヒオール様。応対、模範。婚約者の呼び方、名。手袋、新品。靴、新品。時計の鎖、新品。……新しいものが、三つ。


非の打ち所がない、という言葉を、マティルデ様は使った。会ってみて、私も同じ言葉を使いたくなった。


だから、私はその言葉を疑うことにした。嘘をつく人は、必ずどこかで帳尻を合わせる。合わせた跡が、その人の「非の打ち所のなさ」として表に出ることがある。完璧というのは、たいてい、何かを均した結果だ。


「認可はもうお取りになったのですか」と、世間話の顔で訊いた。


「ええ。昨年の秋に」


「早いのですね」


「備えあれば、というものです」メルヒオール様は感じよく笑った。「認可には時間がかかりますから」


私は微笑んで、扇を全部開いた。この国では、それが「話を聞いています」の意になる。


*


宿へ戻って、控えの紙を並べた。大公家からいただいた婚約の記録、日付はこの春。メルヒオール様の口ぶりでは、認可は昨年の秋。


——観察記録。認可、昨秋。婚約、今春。


順番が、逆である。


この国では、認可がなければ婚約は結べない。ならば認可が先にあるのは、当たり前だ。当たり前のはずだった。ただ、認可の申請には相手の名を書く欄がある。


婚約より半年も前に、彼は誰の名を書いて、その紙を出したのだろう。

お読みいただきありがとうございます! 異国の作法にはいくらでも躓けますが、観察だけは国境を越えて通用します。ジェミマの稽古が振り出しに戻る回でもありました。


次回「認可は、婚約より早い」。半年ぶんの空白に、何が書かれていたのか。


★評価は、次の一話を書く速度に直結いたします。よろしくお願いいたします!

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