第31話:国境の向こうの依頼
馬車に揺られて四日目の朝、窓の外の畑の畝が、まっすぐになった。
王都の周りの畑は、丘のかたちなりに曲がっている。国境を越えてからの畑は、定規を当てたように整っていた。土地の性格ではなく、測る人間の性格だと思う。
——観察記録。メルテン大公国、入国二日目。畑の畝、直線。里程標、四分の一里ごとに一本。関所の帳面、罫線入り。……几帳面な国、と控えておく。
「あんた、また数えてる」
向かいの席で、ジェミマが窓枠に頬杖をついた。四日ぶんの馬車旅で、この子の機嫌は三日目の昼に一度死んで、今朝がた生き返ったところだ。
「数えていません。眺めています」
「眺めながら数えてるでしょ。顔でわかるわよ」
隣で、ギデオン様が書類から目を上げずに言った。
「四日で八十二回だ」
「……何がですか」
「君が窓の外を数えた回数だ」
「殿下も数えていらっしゃるではありませんか」
「公務だ」
ジェミマが吹き出した。私は扇を開いたけれど、隠すほどのものは顔に出ていない——はずである。
*
関所で、書状が止まった。
王家縁談監査室の紋。王都では、この紙を出せば大抵の扉が開いた。ここでは若い係官が三度読み返して、それから隣の年嵩の男を呼びに行った。
「……監査室、というのは、どちらの」
「隣国の、王家の。縁談の監査を職掌としております」
「縁談の」年嵩の男は、心底不思議そうに首を傾げた。「縁談は、登記所の管轄でございましょう」
そこで、私の理解が一度止まった。
「登記所、と申しますと」
「家系登記所です。当国で縁談を結ぶには、登記所の認可が要ります。……どちらの国でも、そうではないのですか」
そうではない、と答えるまでに、少し間が空いた。王都では、縁談は家と家の話だ。仲人が動き、親が決め、教会が祝う。誰かの許しを一枚もらってから始めるものではない。
——観察記録。国境から先、縁談は「認可されるもの」。……物差しが違う。
肩書きが通用しない場所に来たのだ、と思った。不思議と、悪い気分ではなかった。通用しないということは、通用させる余地があるということでもある。
「どうする」とギデオン様。
「歩いて入りますか」
「馬車がある」
「では、馬車で」
結局、私たちを通したのは書状ではなく、関所の前に停まっていた黒塗りの四頭立てだった。扉に樫の葉の紋。アイヒェン家——メルテン大公家の迎えである。
*
大公家の応接間は、天井が低く、暖炉が大きかった。北の国の造りだ。
「よくおいでくださいました。王家縁談監査室の——調査人どの」
そう呼ばれて、私は一度、瞬きをした。
依頼状に書かれていたのは「身辺調査」の四文字だけだった。国境の向こうまで名が届いた、とギデオン様は言ったけれど、届いたのは名ではなく看板だったのだと、この呼ばれ方で分かる。それでいい。看板は、そのために掛けてある。
ギデオン様の立場は、この旅では二枚あった。表向きは監査室の国外案件、もう一枚は——私の婚約者としての同行である。後者について、彼は道中で一度も口にしなかった。代わりに、宿の帳面に二人ぶんの署名を並べて書くとき、必ず私の名を先に書いた。
依頼人は、大公令嬢マティルデ様。十九歳。淡い色の髪を隙のない形にまとめ、背筋が椅子の背に一度も触れない。
——観察記録。大公令嬢マティルデ様。所作、手本どおり。手袋、新品。指先、机の縁を三度撫でる。……緊張の出方が、指先だけ。
「ご依頼の内容を、もう一度うかがってもよろしいでしょうか」
「わたくしの婚約者を、お調べいただきたいのです」
「お相手は」
「メルヒオール様。辺境伯家のご子息で——」マティルデ様は、そこで少しだけ言葉を選んだ。「——非の打ち所のない方です」
私は扇の要に指を掛けた。これまで受けてきた依頼のうち、この言い方を三度聞いている。三度とも、依頼人は相手の悪口を最後まで一度も言わなかった。
「非の打ち所のない方を、なぜお調べになりたいのですか」
「……念のため、でございます」
念のため。四文字の壁である。押せば崩れるだろうが、押すのは今日ではない。壁は、依頼人が自分で寄りかかったときに一番よく倒れる。
「承知いたしました。お約束できるのは真実だけです。それがお望みの答えとは限りませんが、よろしいですか」
「かまいません」
即答だった。指先は、もう机の縁から離れていた。
*
その晩、王都へ手紙を書いた。
事務所の留守を頼んだエスメさんへ、道中の報告と、この国の縁談が認可制であることを三行で。返事が来るまで八日はかかる。八日ぶん、私は自分で判断しなければならない。
「なに書いてんの」
「所長への報告です」
「『前金は取れたか』って返ってくるわよ」
「取れています」
「ならいいわ」ジェミマは寝台に転がって、天井を見た。「……ねえ。あたし、ここの字、読めないんだけど」
顔を上げると、この子は看板の落書きのようなものを紙に写していた。宿の壁に貼られた掲示を、形だけ真似たものだ。線の向きが、王都の文字と違う。
「私も読めません」
「あんたも!?」
「ですから、明日から一緒に覚えます」
ジェミマは何か言いかけて、やめて、また天井を見た。耳が少し赤かったのは、暖炉のせいだと控えておく。
*
登記所へ行ったのは、翌日の午後である。
貴族の血筋と婚姻を記した綴りが、天井まで届く書架に並んでいた。王都の記録所の三倍はある。縁談が認可制の国なのだから、当然といえば当然だ。
「閲覧のご署名を」と書記が帳面を差し出した。誰がいつどの綴りを見たかを控える帳面——閲覧簿というらしい。几帳面な国である。
私は署名しながら、前の頁に目を落とした。先週の日付。閲覧された綴りの欄に、見慣れた綴りの家名があった。
レインズ。
——この国にも、同じ家名の家があるのか。
そう思って、私はペンを置いた。
お読みいただきありがとうございます! 第二部、開幕です。国境の向こうでは縁談が「認可されるもの」——コーデリアの物差しが通じない場所から始めました。
次回「物差しが違います」。読めない文字を前に、ジェミマの稽古が振り出しに戻ります。
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