第3話:あなたの婚約者、二重婚約です
潜入までの五日間で、私たちはヒューバートの「帳尻」を洗った。
——観察記録。子爵子息ヒューバート。手袋は新品、靴は三年物。夜会服の袖口だけ仕立て直し。金の使い先が、顔に出るお方。
一日目、ジェミマが質屋を回った。ヒューバートの家紋入りの懐中時計が、二番街の質屋に入っていた。三月前に。
二日目、私は仕立て屋を回った。婚約の記念にロッティへ贈られた手袋——あれと同じ意匠の注文が、同じ工房に「二組」入っていた。宛先は、別々。
三日目、エスメが貸金業者の帳面を押さえた。子爵家の借財、しめて金貨八百枚。利払いだけで、領地の年収が飛ぶ。
「絵が見えてきたね」エスメは帳面を閉じた。「傾いた家の坊ちゃんが、貴族の体面と商人の持参金、両方欲しくなった。よくある絵だ」
「よくある、で済ませたくありません」
「済ませないさ。だから、夜会で仕上げに行く」
*
オルコット伯爵家の夜会。
私は鏡の前で、鉛白ではなく薄墨で目元に影を入れ、度の入っていない眼鏡をかけた。髪は地味に結い、装いは楽譜運びの音楽教師。名前は「グレイ先生」。
「……ほんとに別人じゃん」ジェミマが半分悔しそうに言った。「化けるの、うまいね」
「化けてはいません。人は、見たいものしか見ないだけです」
令嬢は令嬢を見る。殿方は令嬢を見る。誰も、楽譜を抱えた地味な音楽教師は見ない。社交界で二十一年、壁の花にすら数えられなかった年月は、こういう夜のためにあったらしい。
夜会は、盛況だった。
ヒューバートはすぐに見つかった。金髪を撫でつけ、如才ない笑顔で挨拶を振りまいている。なるほど、悪い噂ひとつない顔だ。
私は楽士の控えの脇から、彼だけを観察した。
三十分で、彼は二度、庭園に続く硝子戸へ視線を送った。手袋の指先で、三度、上着の内隠しを確かめた。中に何か、今夜渡すものが入っている。
(動くのは、庭園)
果たして、四曲目のワルツが始まると同時に、ヒューバートは人垣を抜けた。
庭園の四阿に、先客がいた。絹のドレスを着ているが、立ち方が夜会に慣れていない。豪商ウォルシュ家の一人娘、リズベット嬢——四日目にジェミマが割り出した、「もう一人の婚約者」だった。
「待たせたね、リズベット。……ああ、今夜も君は、この庭のどんな花より綺麗だ」
私は四阿の陰の生け垣で、聞き書きの帳面を開いた。
「ヒューバート様、あの、お式のことですけど……お父様が、貴族様との縁組みなんて話が良すぎるって、心配していて」
「君のお父上は賢明だ。だが心配はいらない。僕の心は、出会った日から君ひとりのものだよ」
……その台詞。
五日前、ロッティが「ヒューバート様がくださった言葉」として、頬を染めて教えてくれた台詞と、一言一句同じだった。
口説き文句を使い回す殿方は、贈り物も使い回す。彼が内隠しから出した細い腕輪は、質屋で写しを取った「流れ品」の台帳、三段目の品と同じ石だった。
帳尻は、揃った。
*
「——リズベット嬢。夜分に失礼いたします」
私が四阿に進み出ると、ヒューバートの笑顔が凍った。
「な……なんだ、君は」
「ハトリー縁談調査事務所より、調査のご報告に参りました。依頼人は、あなたのもうお一方の婚約者様です」
「もう、お一方……?」
リズベットの顔から血の気が引く。私は帳面を開き、読み上げた。
「調査対象、ヒューバート子爵子息。一つ。当家の借財、金貨八百枚。担保は残っておりません。二つ。三月前、ロッティ男爵令嬢と婚約。仲介手数料は借財に上乗せ。三つ。同じ月、ウォルシュ商会のご息女リズベット様と婚約の内約。持参金のご相談まで進んでおいでです。四つ。婚約の贈り物は二件とも質流れ品。同じ工房で、同じ意匠の手袋を二組。……宛名だけ、別々に」
「で、でたらめだ! こんな女の言うことを——」
「でたらめかどうかは、こちらの写しと」私は綴りを差し出した。「今、生け垣の向こうでお聞きになっていた方に、うかがってください」
生け垣から、ロッティが現れた。
エスメに付き添われて。今夜ここに来るかどうかは、最後まで彼女自身に決めさせた。来たのだ。自分の耳で確かめるために。
「ロ……ロッティ。違うんだ、これは」
「今夜も君は、この庭のどんな花より綺麗だ——って」ロッティの声は、震えて、それでも折れなかった。「わたしにくださった言葉と、同じなのですね。ぜんぶ、同じだったのですね」
「僕の心は君ひとりの——」
「どちらの『君』ですの?」
ヒューバートは、答えられなかった。口説き文句の台本には、この場面の頁がなかったらしい。
リズベットが腕輪を四阿の卓に置き、一礼して去った。商家の娘の一礼は、絶縁状より雄弁だった。
「以上が、調査の全てです」
私は帳面を閉じた。
「……最後に一つだけ、私の言葉を。——私は、嘘を見逃しません」
*
騒ぎを聞きつけた人垣が、庭園に集まり始めていた。
その人垣の向こう、広間の二階桟敷に、私はふと視線を感じた。
銀色の髪の男が、一人で立っていた。踊りもせず、グラスも持たず、ただまっすぐに——ヒューバートではなく、私を見ていた。
観察する者は、観察されると分かる。あれは、余興を眺める目ではなかった。
(……誰?)
次に瞬きをした時には、桟敷から人影は消えていた。
お読みいただきありがとうございます! コーデリアの初仕事、「悪い噂ひとつない婚約者」の化けの皮を一枚剥がしました。決め台詞も出ました。——私は、嘘を見逃しません。
次回「逆恨みの子爵子息と、白い鳩の封印」。倒したはずの敵が、噛みついてきます。そして桟敷の銀髪の男とは……?
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