第2話:縁談調査人という仕事
北へ行く馬車を、私は待たなかった。追手はなく、手紙の一通も来ないだろう。醜聞を上塗りするより、いない娘として帳簿から消すほうを選ぶ家だ。……静かな勘当というものは、存外、身軽だった。
ハトリー縁談調査事務所は、王都の三番街、仕立て屋と質屋に挟まれた細い建物だった。
看板は小さい。扉の真鍮の取っ手だけが、よく磨かれて光っていた。
——観察記録。看板は古いが、取っ手は毎日磨かれている。人の出入りが、絶えない店。
私は扉を叩いた。
「開いてるよ」
中は書類の匂いがした。棚には紐で綴じた帳面がぎっしりと並び、その奥の机に、銀髪をきっちり結い上げた婦人が座っていた。年の頃は五十代。指にインクの染み。婦人は私を頭から爪先まで一度だけ見た。
「ご依頼かい、お嬢さん。うちは前金制だよ。ただし真実は値引きしない。それで良ければお掛け」
「依頼ではありません。雇っていただきたいのです」
婦人——所長のエスメ・ハトリーは、片眉を上げた。
私は昨夜の顛末を話した。婚約破棄。三つの嘘。修道院行きの沙汰。話し終える前に、エスメは手を振った。
「気の毒だが、うちは駆け込み寺じゃない。行き場のない令嬢を拾ってたら、床が抜けちまう」
「では、試してください」
「試す?」
「この仕事に私が使えるかどうか。使えなければ、諦めて出ていきます」
エスメの目が、初めて面白そうに細くなった。その時だった。
「ばーか。度胸だけで務まる仕事じゃないっての」
声は頭の上から降ってきた。階段の手すりに、猫のように腰掛けた少女がいた。十五、六だろうか。そばかすと、跳ねた赤毛。少女はひらりと床に降りると、私の周りをぐるりと一周した。
「あんた、いいカモの顔してる」
「……褒めていますか、それは」
「褒めてんの。カモの顔したまま懐に入るのが調査人でしょ」
少女は指先で、何かをくるりと回してみせた。
私の髪飾りだった。母の形見の、銀細工の。いつ抜かれたのか、まるで分からなかった。
「ジェミマ!」
エスメの雷が落ちる。ジェミマと呼ばれた少女は肩をすくめ、髪飾りを私の掌に戻した。
「へいへい。……ちぇ、いい銀なのに」
「盗られた側の感想を言えば」私は髪飾りを挿し直した。「今の手際、すれ違う瞬間に右袖へ注意を引いて、左手で抜きましたね。次は袖ではなく、目線で引かれてみたいものです」
ジェミマの手が、止まった。
「……あんた、見えてたの?」
「見えていません。ですから、帳尻から数えました。あなたは最初、私の右側に立った。理由のない立ち位置には、理由があるものですから」
沈黙。
先に噴き出したのは、エスメだった。
「——いいだろう、試験だ。ちょうど今朝、依頼が一件入ってる。ついてきな、お嬢さん。あんたの目が本物かどうか、現場で見せてもらうよ」
エスメは机の引き出しから依頼状を出し、ふと、私が差し出したままだった母の名刺に目を落とした。
その目が、一瞬だけ止まった。名刺の裏の、掠れた走り書きの上で。
「……エスメさん?」
「何でもないよ。行くよ、二人とも」
*
依頼人は、ロッティという名の男爵令嬢だった。
事務所の応接室で、彼女は膝の上の手袋を何度も畳み直しながら話した。婚約者はヒューバート子爵子息。縁談は仲介ギルドを通した、家格も釣り合いも申し分のない良縁。式は二月後。
「それで、ご依頼というのは」
「……笑わないで、くださいますか」
ロッティは、消え入りそうな声で言った。
「何も、ないんです。ヒューバート様はお優しいし、贈り物もくださるし、悪い噂ひとつない。ただ……なんとなく、不安で。結婚が決まってから、夜眠れなくて。こんなことで人様を調べるなんて、はしたないと分かっているんですけど」
「はしたなくありません」
自分でも驚くほど、はっきりと声が出た。
「疑うことは、裏切りではありません。確かめてから信じる方が、確かめずに信じるより、ずっと深く信じられます。——少なくとも私は昨夜、確かめなかった側の末路を見てきました」
ロッティが顔を上げた。エスメが横目でこちらを見たのが分かったが、止められなかった。
「あなたの不安の中身を、一緒に数えましょう。何もなければ、それが一番いい。安心して式を挙げればいいのです。何かあれば——式の前に分かって、よかったと思う日が来ます」
ロッティの目に、涙の膜が張った。泣くのを堪える顔は、昨夜の鏡の中で見たばかりだったから、よく分かった。
「……お願い、します」
*
帰り際、エスメが言った。
「合格とは言ってないよ。だが依頼人の前の口の利き方は、及第だ」
「ありがとうございます」
「本番はここからだ。ヒューバートの周りを洗う。それから——」エスメは依頼状の綴りを繰った。「五日後、オルコット伯爵家の夜会にヒューバートが出る。潜り込むよ」
「潜り込むって」ジェミマがにやりと笑って、私を見た。「あんた、昨日の今日で社交界に出戻り? 顔、割れてんじゃないの」
「問題ありません」
私は答えた。
「昨夜の三百人は、『捨てられた令嬢』の顔しか覚えていません。別の顔で行けば、誰も私だとは思わない。——人は、見たいものしか見ませんから」
お読みいただきありがとうございます! 手癖の悪い後輩ジェミマ、前金制のエスメ所長、そして最初の依頼人。コーデリアの初仕事は「悪い噂ひとつない婚約者」の調査です。
次回「あなたの婚約者、二重婚約です」。変装して夜会に潜入します。
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