第28話:右腕の証言と、君自身
事務所の卓は、ここ数日ですっかり写しの山に占領されていた。
「ねえ、あんた昨日から何枚読んだのよ。目、二つしかないんだからね」
「二つで足りています。ジェミマ、袖の中の砂糖壺を戻しなさい」
「借りただけよ」ジェミマは壺を指先でくるっと回して棚に戻し、代わりに包みを帳面の上へ置いた。「ほら、焼き菓子。エスメさんが、根を詰めすぎだって。……食べなさいよね。断罪の前に倒れたら、笑い話にもならないんだから」
「いただきます」
包みを開けたところで、監査室の使いが扉を叩いた。報せは、一行だった。
——白鳩会仲人頭コルネリウス、監査室に自ら出頭。
*
——観察記録。白鳩会仲人頭、コルネリウス。壮年。礼服に皺なし、爪まで整えて、荷は鞄一つ。逃げる者の手ではない。店を畳む者の手。
「お初にお目にかかります、レインズ様。ご高名は、庭の内からかねがね」
一礼は、婚礼の式場のように完璧だった。この物腰で、何百の縁談を「作って」きた人だ。
「記録官が落ち、帳簿が落ち、庭の垣根は裸になりました。——沈む船の帳尻くらい、わたくしにも読めます」
「証言と引き換えに、罪の軽減を。そういうお話ですね」
「ご明察。では、実務のお話を」
コルネリウスは手袋を外し、帳簿を読み上げる声で始めた。
「一つ。十七年前、とある証人のご息女の『事故』。九年前、調査人カサンドラ・レインズ様の『事故』。いずれも夫人のご指示です。実行は回収屋——いまのバージルの、前の代の者ら。わたくしは手配の支払いを検めました。事故の形をした、支出でございます」
ペン先が、一度だけ行を外れた。それだけだ。私は行を戻した。帳面の縁を持つ指が白くなっていることには、気づかないことにした。
「……お続けして、よろしゅうございますか」
「どうぞ。記録が、途中ですので」
コルネリウスは鞄から薄い綴りを出し、頁を開いて卓に置いた。
「九年前の分の、支出の写しでございます。三の月、車軸職人への手間賃がひとつ。同じ月、街道番への酒手がふたつ。翌月——御者のご遺族への、見舞金」
数字と費目が、事務の声で並んでいく。母の「事故」は、三行の支出で組み上がっていた。人ひとりの命の値が、あの会の帳簿の上では、夜会のドレス一着より安い。
「見舞金、まで」
「夫人は、後始末に金を惜しまれません。……それを親切と呼ぶ方も、庭には多うございました」
私は三行を、一字も違えず写し取った。震えなかったと言えば、嘘になる。ただ、数字は震える手でも写せる。母が、そう教えた手だからだ。
「二つ。先の王妃選定。消えた候補の醜聞は、会の作です。台本、封蝋の紹介状、借金の首輪——押収の帳簿と、突き合わせが利きましょう。三つ。夫人が書き付けに署名をなさらなくなったのは、十七年前からです。それ以前の署名入りの指示書は——本物です、とだけ」
母の手帳の空白に、他人の声で言葉が埋まっていく。九年前のあれは、事故ではない。口封じだ。ずっと数えられずにいた最後の一行が、支出、という言葉で確定した。
「以上が証言の目録でございます。細目は調書にて。……それと、これは対価に含めない一枚ですが」
彼は鞄から、写しを一枚出した。
「九年前からの、会の『要注意』名簿でございます」
カサンドラ・レインズの名があった。その下に、監視対象として並ぶ名——ヴェルクレア公爵。
「殿下は九年、うちの庭を嗅ぎ回っておいででした。一年前の秋の夜会にも——内偵で」
一年前の秋。オルコット伯爵家の夜会。
私の、初めての断罪の夜だ。
*
夜の監査室は、ランプが二つだった。二つしかない火を、私は三度数え直した。
「コルネリウスの証言は読んだ」ギデオン様は書類から顔を上げた。「……名簿も、見たんだな」
「確認します。一年前の秋、オルコット伯爵家の夜会。桟敷にいらしたのは、内偵ですか」
「そうだ」
「白鳩会の、ですか」
「それだけなら、庭に近い夜会は他にもあった」
「では、なぜ、あの夜会に」
「カサンドラの娘が調査事務所に入ったと、報告が上がっていた。——確かめに行った。母君の目が、娘に残っているかどうかを」
偶然の観客だと思っていた。余興を眺める目ではないと、あの夜の私は正しく観察していた。正しく観察して、意味だけを取り違えていた。あれは、検分の目だ。
最初から、私は「母の娘」として見られていた。スカウトも。婚約も。
帳面は持ってきていた。ペンも持っていた。記録は、一行も取れなかった。
「……確かめた結果を、うかがっても」
「報告書には、書けなかった」
彼は立ち上がりもしなかった。歩み寄りもしなかった。ただ、順番の整った声で、答えを置いた。
「目は、母君のものより苛烈で、まっすぐで——目が、離せなくなった。以来ずっと、俺は君を見ている。入口が母君の名だったことは、取り消さん。だが、いま隣に立たせているのは、君だ。……観察記録に、そう書いておけ」
私は帳面を開かなかった。開かないまま、胸の内に記した。
——観察記録。ギデオン・ヴェルクレア。供述の順番、乱れなし。視線の逸れ、なし。虚言の兆候——なし。以上。
以上、の二文字を記すのに、いつもの三倍かかった。観察者としては、失格である。記録としては、正しい。
「……書いておきます。永久保存の綴りに」
「高くつきそうだな」
「ええ。王都で一番」
*
翌朝、監査室に王宮からの裁可が届いた。ギデオン様はそれを卓に広げ、宣告した。
「王家主催の夜会で、白鳩会に関する監査の結果を公表する。日取りは十日後。——兄上の署名入りだ」
十日後。舞台は、夜会。
一年前、私が数えることしかできなかった場所で、今度は読み上げる。依頼人は、私。調査対象は、母を消した庭の主。
断罪の舞台が、定まった。
お読みいただきありがとうございます! 母の死が「支出」という言葉で確定する回であり、三話の桟敷の答え合わせの回でした。観察記録に「以上」と書くまでの三倍の時間が、この二十八話ぶんの距離です。
次回「白い鳩の面が割れる」。王家主催の夜会、十日後——母娘二代の調査報告が、庭の主の前で読み上げられます。
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