第27話:帳簿は嘘をつかない
「ドッブが消えました」
朝一番、監査室に届いた報せは、それだけで充分だった。
ドッブ。白鳩会の帳簿番。貸金と紹介料、幾重にも折り畳まれた金の流れを、たった一人で握る初老の男。ハウエルの証言で監査室が白鳩会本部へ立ち入った、まさにその朝——帳簿部屋の棚は、綺麗に空だった。
埃の跡だけが、昨日までそこに何十冊も並んでいたことを教えていた。運び出しは一晩。人手は最小。つまり、あの男が自分で持ち出した。
「逃がせば終わりだ」ギデオン様の声は低かった。「帳簿が国境を越えれば、金の流れは二度と数えられない。夫人の首に届く縄が、一本消える」
「街道の検問は」
「もう張った。だが紙の束は、人と違って顔がない。荷に紛れれば止めようがない。……時間との勝負だ。三日、いや二日で見つけろ」
「一日で追います。——ジェミマ」
「呼ばれる前から支度してるっての」
*
「あのさ、あんた。帳簿ってのは重いの」
下町の路地を先に立って歩きながら、ジェミマは指を三本立てた。
「重い荷物は、人を選ぶの。自分で担ぐか、荷運び屋を雇うか、船に載せるか。三つに一つ」
「荷運び屋と、夜逃げ屋は」
「もう当たった。昨夜から今朝までで、帳箱ほどの荷を受けた店はなし。夜逃げ屋は近ごろ相場が上がってて、給金取りの帳簿屋にゃ手が出ない。……なんであたしが夜逃げ屋の相場知ってんの、って顔やめてくんない?」
「感心していただけです」
「自分で担ぐなら、街道は無理。帳箱抱えた爺さんなんて、検問で止めてくださいって言ってるようなもんでしょ。だから残りは——」
「船、ですね」
「そ。河岸なら荷は珍しくないし、川を下れば三日で国境。下町じゃ、急ぎの荷は陸より水って決まってんの」
歩きながら、あの子は屋台の親父に二言、洗濯女に三言、声を掛けていく。銅貨も出さずに、川止めが昨日まで続いていたこと、今夜から便が戻ることを聞き出してきた。下町の目と足。この方面で、私はあの子に一生勝てない。
「で、ここからはあんたの番。船っていっても、闇船から定期便まで色々あるの。あの爺さん、どれを選ぶ?」
私は手帳を開いた。
——観察記録。帳簿番ドッブ。立ち入り調査にて三度目撃。歩幅、常に一定。書き損じはその日のうちに必ず引き直す。昼食は十年同じ店。冒険を、しない男。
「几帳面な帳簿番は、逃げる時も几帳面です。闇船は使いません。沈むかもしれない船に、帳簿は載せない。選ぶのは一番安全な便——」
「定期便の艀だ」ジェミマがにっと笑った。「川止め明けで、今夜の下りが一便だけ。……時間との競争ね。走るよ、あんた!」
*
夜の船着き場。川霧。灯りは艀の舳先に一つ。
商人風の外套の男が一人、積み荷の陰から桟橋の際へ出てきた。外套は着古しを選び、帳箱には魚の臭う筵まで掛けてある。用意のいいこと。けれど、人待ち顔は作れても、歩幅までは作れない。
常に一定の、あの歩幅。
「見つけた」ジェミマが囁いた。「ね、切符は懐の右。さっき二回、確かめて叩いた。ああいうのが一番抜きやすいの」
「怪我はさせないで」
「誰に言ってんの」
ジェミマが人混みへ溶けた。荷担ぎとすれ違い、酔客をよけ、男の脇を——ただ、通り抜けた。それだけ。
艀が着く。男が懐へ手を入れる。乗船切符と、艀の鑑札。あるはずの場所を、二度、三度、叩く。
「お探し物は、これ?」
ジェミマの指先で、切符と鑑札が、くるりと回った。
男が振り向いた先、桟橋の付け根に、ギデオン様が立っていた。
「王家縁談監査室だ。ドッブ殿——船はもう、あなたを乗せない。道は検めてもらって構わないが、時間の無駄だ。囲みは済んでいる。その荷は重かろう。降ろせ」
灯りが四方で一斉に上がった。初老の男は、走らなかった。几帳面な男は、算段の立たない賭けをしない。帳箱を抱えたまま、その場にゆっくりと膝を折った。
「はい、切符と鑑札。返すのは監査室の仕事だからね」
ジェミマは手勢の隊長に二枚を押しつけ、それから小声で私に言った。「……ね、あたし今日、役に立った?」
「独壇場でした」
*
押収した帳簿を、私は監査室で一晩かけて開いた。
二重帳簿だった。表は、縁を結んだ美談の記録。裏は——「縁組」一件ごとに、紹介料、貸付、利息、そして「回収」の欄。
読み方の癖は、すぐに掴めた。家名は番号に置き換えられている。用心のつもりだったのでしょう。だが番号の隣に、几帳面な小さい字で利息の起算日が入る。起算日は、縁組の日。縁組の日付なら、社交界名鑑と突き合わせられる。
一件目。起算日は五年前の春。その季節に結ばれた伯爵家の縁組は、名鑑に一つしかない。番号七は、家名に戻った。二件目。三件目。几帳面さは、隠す側に回っても几帳面なまま。同じ手順が、最後まで通った。
つまりこの裏帳簿は、鍵ごと差し出されたのと同じだった。
夜明けまでに、番号は三十七、家名に戻った。貸して、縁を結ばせ、利息で縛り、逆らう家には「回収」。縁と借金の、二本の糸。家が、数字で飼われていた。
「……わしは、数字を書いただけだ」
取調べの席で、ドッブは魂の抜けた顔で言った。私は答える代わりに、頁を一枚繰った。この人を裁く言葉は、私が言うまでもない。この帳簿が、一行残らず持っている。
そして、最後に家名へ戻した番号——最初の頁の、筆頭の欄。最も古く、最も額の大きい「お得意様」。
貸付は二十年前から。回収の欄は、一度も埋まったことがない。回収は、まだこれからということだ。
家名は、ブライア侯爵家。
元婚約者の家は、白鳩会の、最大の駒だった。
お読みいただきありがとうございます! 逃げる帳簿を、下町の知恵と観察記録の合わせ技で川岸に釘付け——ジェミマの指が今回も大活躍でした。そして帳簿の筆頭に、あの家名が。
次回「右腕の証言と、君自身」。帳簿の次は、人。夫人の右腕が口を開くとき、刃はコーデリア自身にも向きます。
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