第26話:記録官は頁を破る
「王家の記録に手を入れられる、内側の人間。——数えましょう。条件は、三つです」
監査室の長机に、私は貴族院の職員名簿と、当直記録の写しの束を並べた。
九年前、貴族院の縁談記録所から、母に関わる記録が抜き取られていた。破れ目ひとつ残さない、職人の仕事で。
「一つ。当該書庫の鍵に触れられたこと。鍵は正副の二本きり。持ち出しには当直の署名が要ります」
「二つ目は」と、ギデオン様が先を促した。
「綴りの装丁を、跡を残さず直せる技能。頁は、破っただけでは消えません。綴じ直されて、初めて『無かったこと』になります」
「三つ目は」
「九年前も今も、在職していること。抜き取りのあった綴りは、五年ごとの装丁点検を二度、無傷で通っています。点検の目をごまかし続けるには——点検する側に、いる必要がありますので」
「なるほど。番人が、破り手か」
九年分の当直記録と署名簿の照合には、丸二日かかった。
九年前、書庫の鍵に触れられた者、三十一人。うち、装丁の心得のある者、四人。うち、今も貴族院に籍のある者——。
三つの輪の重なる場所に、名前は一つしか残らなかった。
「縁談記録官ハウエル。勤続三十年。——綴じ直しの名人って呼ばれてる、じいさんだよ」
下町から報告を持ち帰ったのは、ジェミマだった。
「それでね、あんたに言われた通り、身内の縁も洗った。孫が近衛の書記に任官。姪は西部の子爵家に、後添いじゃなくて正妻で嫁いでる。記録官の家の縁にしちゃ」
「良すぎる」
「そ。仲介はどっちも白鳩会。……鎖より安くて、鎖より切れないってやつだ」
ジェミマは紙切れを指先でくるりと回して、私の帳面の上に置いた。任官の年月と、嫁入りの持参金の額。よく調べてある。
「読み書き、上達したわね」
「調べたのはあたしの足。書いたのは、まあ……三割くらい、あんたの授業」
*
翌朝、貴族院縁談記録所。
「王家縁談監査室である。監査権に基づき、当記録所の綴りと台帳を検める」
ギデオン様の一声で、書庫の扉が内側から開かれた。紙と膠と、古い蝋の匂い。奥の綴じ台から、初老の男がゆっくりと立ち上がった。
——観察記録。縁談記録官ハウエル。齢六十前後。背は綴じ機のように曲がり、指先だけが若い。右手の親指に、糸を張る者の胼胝。爪は短く、磨かれている。頁を、何より大切にする手。
「これは……監査卿殿。当所の綴りに、何ぞ不備でも」
落ち着いた声だった。三十年、この書庫の主であった者の声。やましさは、匂いほども漏れていない。
「不備はありません」私は進み出た。「完璧です。三十年分、どの綴りも。——完璧すぎることが、唯一の不備でした」
「はて。仰る意味が」
私は当該の綴りを、彼の綴じ台に置いた。彼の城の、彼の台に。
「調査のご報告を申し上げます。一つ。九年前の三月、副鍵の持ち出し署名。三夜連続で、あなたのものです」
「当直なら、誰でも署名は」
「二つ。この綴り、抜けた頁の前後だけ、綴じ糸の撚りが違います。全体は麻糸の古色、二箇所だけ蝋引きの照り。名人の手は、跡を消せても——新しさまでは、消せません」
「……古い綴りは、直すのも仕事のうちで」
「装丁点検は、この九年で二度。担当はいずれも、あなたです。ご自分の仕事を、ご自分で検めておいでだった」
ハウエルの若い指先が、初めて浮いた糸のように震えた。
「三つ。お孫さんの任官と、姪御さんの縁組。いずれも白鳩会の仲介です。記録官の俸給と釣り合う縁では、ありません」
「わ……わしは……」
老人は綴じ台の縁を掴み、掴みそこねて、膝を折った。
「お慈悲を。監査卿殿、お慈悲を……孫は、孫は何も知らんのです。わしは、頁を破っただけだ。人を傷つけたことなど、ただの一度も——」
「その頁が、人でした」
私は、声を上げなかった。上げる必要が、なかった。
「あなたが破ったのは、カサンドラ・レインズという調査人が、生きて、働いた記録です。……私の、母の」
老人は床の上で、綴じを解かれた頁のように、小さく折り畳まれた。
*
証言は、書庫の隅の小机で取った。
九年前のある朝、綴じ台に白い封蝋の文が置かれていた。差出人の名は、無い。指定の三箇所の記録を抜き、指定の夜に届けること。断った場合のことは——孫の名で、書き添えてあった。
「渡した相手の顔は、見ておりません。頭巾を被った女中がひとり。場所は……白鳩会の、庭園でした」
白鳩の庭。母の帳面の言葉が、また一つ、現在に結び付いた。私は帳面に書き付ける手を、途中で止めないよう、数を数えた。
「封蝋の意匠は」
「白一色。翼を広げて、輪をくわえた鳩の判で。……署名は、どこにも」
署名を残さない。あの方の、いつもの流儀で。
「『借り』の帳尻は、これに」
ハウエルは震える手で、私的な手控え帳を差し出した。
「任官の口利き、嫁入りの持参金……頂いたものは、全部付けてあります。記録官の性分でしてな。……借りたものはいつか帳簿に載ると、誰より、分かっておったのに」
ギデオン様が連行の指揮を執った。衛士に左右を挟まれ、三十年通った書庫の敷居をまたぐ間際——老人は一度だけ、振り返った。
「お嬢さん。わしを数えて、終わりと、思いなさるな」
命乞いの涙の跡のまま、その目だけが、妙に凪いでいた。
「わしのような『借り』のある者は、王都に——何十人も、おりますよ」
扉が、閉まった。
「何十人」と、ジェミマが小さく繰り返した。「……あんた、どうすんの」
私は帳面の、新しい頁を開いた。
「数えるわ。一人ずつ。——それが私の仕事だもの」
お読みいただきありがとうございます! 包囲網の一人目は、書庫の番人でした。「その頁が、人でした」——罵倒より冷たい一言を、コーデリアは静かに置いていきます。
次回「帳簿は嘘をつかない」。白鳩会の「縁の借り」、その金の流れをたどります。
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