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婚約破棄された令嬢、縁談調査人はじめました 〜あなたの婚約者の裏の顔、お調べします〜  作者: 藤宮レイ


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第25話:母の最後の調査記録

火にかざした頁の文字は、冷めても消えなかった。蜜柑の汁の焦げ茶色で、母の字が、九年ぶんの白を破っている。


『娘へ。

真実の置き場所。貴族院、縁談記録所。レインズ家婚姻記録の綴り。背表紙の革の下。

鍵は要らない。要るのは、正当な権限と、検める目。

——結論。家族の記録の背に、綴じておきました』


在り処の指定まで、観察記録の型だった。見たもの、置き場所、結論は最後の一行。私が千回書いてきた順番のまま、母は最後の隠し場所を書いていた。


金庫でも、床下でもない。家族の記録の背に、真実を綴じた人。


隠し場所というものは、その人の考え方が出る。母は、いちばん壊されにくい場所を選んだのだと思う。貴族院の記録は、燃やせば国が騒ぐ。捨てれば家が消える。誰も、家系の綴りの背までは疑わない。


翌朝、私たちは貴族院へ向かった。


*


縁談記録所は、王宮の書庫より深く、静かだった。窓は高く、光は棚の上のほうにだけ届いている。監査卿の印章ひとつで、格子の扉が開いた。


「レインズ家の、婚姻記録を」


年配の記録官が奥から抱えてきた綴りは、両腕に余る厚さだった。曾祖父母の頁に始まり、祖父母、そして——父と母の婚姻の頁で、記録は終わっている。


父と母の頁には、立会人の署名が並んでいた。母の字もあった。若い。終筆の止め方は同じなのに、線がまだ細い。この字が、あの手帳の字になるまでの年月を、私は思った。


「ここ」


背表紙を指先でなぞっていたジェミマが、小さく言った。


「糸が一度、解かれてる。すごく丁寧に縫い直してあるけど……あたしの指は、誤魔化せない」


ギデオン様が記録官に立ち会いを求め、装丁の背の革を慎重に剥がした。古い膠の匂いがした。


背の芯とのあいだに、薄い油紙の包みが、平たく収まっていた。


九年間。誰の目にも触れず、家族の記録に抱かれていた包み。


私はそれを、両手で受け取った。手帳と同じで、拍子抜けするほど軽かった。真実の重さは、目方では量れないらしい。


「……よく見つかったもんだ」記録官が呟いた。「この綴り、九年で開かれたのは、今日が初めてですよ」


開かれない記録の中。母の選んだ場所は、最後まで正しかった。


*


監査室に持ち帰り、三人で卓を囲み、紐を解いた。油紙は三重だった。湿気を通さないための重ねだと、手が先に分かった。母の仕事は、いつも仕舞い方まで丁寧だ。


中身は、三つ。


一つ目は、段取り書の写し。十四年前——先の王妃選定で消された候補の、醜聞の作り方が書かれていた。雛形の口上。手配の日付。支払いの記録。あの醜聞は起きたのではない。仕立てられていた。


読み上げる声が、途中から要らなくなった。日付と金額が並んでいるだけの紙が、どんな告発の演説よりも雄弁だった。


二つ目は、十七年前の指示書の原本。文面は短い。だがその末尾に、署名があった。


オクタヴィア。


「若い頃は、まだ自署していたのか」ギデオン様が低く言った。「いまのあの女は、何にも署名を残さない」


「ええ。署名が消えた年が、尻尾を出さなくなった年です。……母は、最後の尻尾を持っていた」


ジェミマは黙って、その署名を見ていた。あの人の下部で育った娘の目に、この一枚がどう映るのか。私は訊かず、ジェミマも言わなかった。ただ、卓の下で組んだ指が、いつもより固かった。


三つ目は、封のされた文だった。表に、ただ一言。『娘へ』。


封蝋は、割れていなかった。九年間、誰にも読まれていない。私宛ての文としては、ずいぶん遠回りをして届いたことになる。


*


母は、自分が追われていることを知っていた。文の日付は、あの事故の十日前だった。


けれど文には、危険の警告も、逃げろの一言も、なかった。書いてあったのは——仕事の話だった。


『見抜くことは、疑うことではありません。守ることです。

私は、あなたの縁談がいつか誰かに検められる日のために、これを遺します。

検める者が正しくあれば、記録はあなたを守ります。母が、そばにいなくても』


私は文を、二度読んだ。


一度目は、調査人として。二度目は——ただ、読んだ。


追われている人の字ではなかった。線は乱れず、行は水平で、結論は最後に置かれている。食卓で「今日は、何を見たの」と訊いた、あの声のままの字だった。


母は死の間際まで、逃げ支度をしていなかった。荷造りでも別れの言葉でもなく、誰かを守る側の仕事を、最後の十日までしていた。私という、まだ十二だった依頼人のために。


泣かなかった。泣く代わりに、鞄からペンを出した。


包みの最後の一枚は、母自身の結びの記録だった。体言止めの列挙が並び、最後の一行で締められている。その下の余白に、私は同じ型で書き足した。


——観察記録。カサンドラ・レインズの調査、右のとおり相続。担当、コーデリア・レインズ。


インクが乾くまで、誰も口を開かなかった。


「……いい字」ジェミマが、それだけ言った。「そっくり」


「受理する」ギデオン様は監査卿の声で言い、それから少しだけ、緩めた。「——九年越しの引き継ぎだ。丁寧にやれ」


私は頁の端をひと撫でしてから油紙を畳み直し、紐を元の形で結んだ。母の結び方は、知っている。千回、見てきた結びだ。


結び終えて、手を離す。包みは卓の上で、ただの古い油紙に戻った。九年待った物にしては、静かな顔をしていた。


*


証拠は、揃いつつある。


段取り書。署名入りの指示書。カルヴィンの台本。二枚の紙の透かし。母娘二代の記録が、いま一つの卓の上で重なっている。


ただ一件——九年前、王家の記録から頁が抜き取られた件だけが、手つかずのまま残っていた。


あれは、外から盗める物ではない。格子の内側で、正当な鍵を持つ誰かが、頁を抜いたのだ。


「次は」私は言った。「内側の人間を、数えます」


王家の記録に手を入れられる者。その名簿は、そう長くないはずだった。

お読みいただきありがとうございます! 断罪のない、この物語でいちばん静かな回です。母が最後まで「守る側」の仕事をしていたこと、そして母娘二代の観察記録が一枚の頁で合流する瞬間を、じんわり受け取っていただけたら嬉しいです。


次回「記録官は頁を破る」。王家の記録に手を入れられる「内側の人間」の数え上げが、思わぬ形で動き出します。


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