第24話:空白の頁
貴族院の縁談記録所は、紙と埃の匂いのする役所だ。監査室の嘱託の身分票は、今日も書庫の扉をよく開けてくれた。開けた先に、目当てのものが、なかっただけで。
九年前——母が死んだ年の、縁談記録の綴り。
あるはずの頁が、抜けていた。台帳の受付番号は、三つ飛んでいる。
——観察記録。貴族院縁談記録所、九年前の綴り。受付番号、三件ぶん欠落。破り跡、なし。綴じ糸は一度解かれ、元と同じ結びで綴じ直し。……盗みの手ではない。仕事の手。
母の手帳の破られた頁とは、まるで違った。あちらは急いだ者の乱暴な仕事。こちらは、急ぐ必要のなかった者の丁寧な仕事だ。忍び込んだ盗人は、綴じ糸を役所の作法どおりに結び直したりしない。
内側の人間。それも、この書庫の糸の癖を、手が覚えている人間。
念のため、貸し出しの控えも当たった。九年前の綴りを借り出した者の名は、一人もない。借りずに抜ける者は、借りる必要のない場所にいる者だ。
「綴りに、何か乱れでも」
通りかかった記録官が、丁寧に訊いてくれた。私は首を振った。
「いいえ。……とても綺麗なものですから、見入っていました」
嘘ではない。綺麗すぎることだけが、今日の収穫だった。顔のない当たりを一つだけ帳面に書きつけて、私は書庫を出た。
事務所に戻ると、エスメの古い綴りも検めさせてもらった。十七年前、所長が白鳩会に負けた年の記録。けれど先の王妃選定は十四年前で、時期が三年ずれている。エスメの帳面は、母の最後の一件までは届かない。
九年前は抜かれ、十七年前は届かない。
壁だった。
*
「監査室も、九年探した」
夜の監査室で、私の書きつけを読み終えたギデオン様が、そう言った。
「破られた頁の、中身をですか」
「写本、控え、下書き。カサンドラの手が触れた紙は、一枚残らず検めた。『ずっと探している』と言ったのは、誇張じゃない。——そして今日、君は記録所の壁に当たった」
「内側の人間の仕事でした。敵は九年前のうちに、紙という紙を刈り取っています」
「だろうな」
ランプの灯が、卓の上の黒い手帳を照らしていた。私は、帰り道からずっと数えていたことを、口にした。
「ギデオン様。母は、目次を作る人でした。夕飯の買い物まで、調査と同じ筆圧で書く人でした」
「几帳面な調査人だったと、聞いている」
「その几帳面な人が、命懸けの一件を、奪われるかもしれない一冊にだけ書いたでしょうか。母は、自分が追われていると分かっていたはずです」
ギデオン様の目が、書類から上がった。
「——奪われることを予期した調査人は」
「写しを残します。私なら、残します」
「母娘の性分に賭けるか」彼は短く息を吐いた。「悪くない賭けだ。だが、在り処は。九年、監査室の目からも逃げ切った写しだぞ」
「それを、これから数えます」
ギデオン様は卓の手帳を、私の方へ静かに滑らせた。
「持って帰れ。……写しの鍵があるとすれば、原本の側だ。母君は、君の手に渡ることまで数えていたのかもしれん」
*
夜の事務所は、灯りが二つ。
一つは私の手元で、八年ぶんの手帳を今夜三度目に繰っている。もう一つはジェミマの手元で、インク壺と、読み書きの稽古の紙を照らしている。
「ねえ、『鳩』って字、見ないで書けたんだけど。見る?」
「後で見ます。ちゃんと」
「ふん。……前はさ、鳥の絵にしか見えなかったのよね、これ」ジェミマはペン先にインクを足した。「今は、字に見える。不思議なもんね」
「上達した、ということです」
「……あんた、それ繰るの三度目よ。めくったって、字は増えないでしょ」
「写しがあるはずなのです。母の、最後の一件の。けれど、どの頁にも——」
ジェミマはペンの尻で頬を掻いて、蝋燭の火を眺めながら、何でもないことのように言った。
「写しねえ。バージルんとこじゃ、値打ちもんの書付は蜜柑の汁で写しを取ってた。火で炙ると浮くの。……なに、その顔」
手が、勝手に動いていた。
頁を、最後まで繰る。
最終頁。白い頁。日付も、線も、染みひとつない。几帳面な母が、最後の頁「だけ」を白いまま逝った——書かなかったのでは、ない。
「……見えない字で、書いたのです」
椅子の鳴る音がして、奥からエスメが来た。何も訊かずに、帳場の蝋燭を持って。
「手が震えるようなら、あたしが持つよ」
「震えません」
「だろうね」
蝋燭の火に、そっと、頁をかざす。
「ちょっと、燃やさないでよ」
「炙るのです。……静かに」
紙が、ゆっくり温もっていく。
何も、起きない。
一呼吸。
——浮いた。
茶色の、細い線。
線が、字になる。小さな、几帳面な、千回見た母の字に。
短い、数行だった。日付がひとつ。それから、何かの在り処を指すらしい言葉。今夜のうちに読み解くには、まだ足りない。
「……あたし、なんかやった?」
「ええ。大手柄です」
「ふうん」ジェミマは覗き込んだまま、少しだけ胸を張った。「あたしの指は嘘つかないけど、口も、たまには役に立つわけだ」
エスメは蝋燭を持つ手を、最後まで揺らさなかった。ただ一言、「……あの人らしい。湿っぽくない置き土産だよ」と言った。
けれど、頭書きだけは、読み違えようがなかった。
それは、調査記録の型ではなかった。
『娘へ』
私は泣かなかった。
泣く代わりに、数えた。二文字。八年ぶんの手帳の中で、いちばん短い頭書き。
そして九年のあいだ、この白い頁の下で、ずっと私に宛てられていた。
お読みいただきありがとうございます! 行き詰まりの夜に道を開けたのは、やっぱりあの子の指先と、古巣仕込みの知恵でした。蜜柑の汁、恐るべし。
次回「母の最後の調査記録」。蝋燭の火が浮かび上がらせた数行を、母娘二代の目で読み解きます。
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